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明末の麒麟児  作者: sawami
第8章
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失われたはずのもの

永暦四年(一六五〇年)三月 山東省済寧州


 その日は、朱慈煥にとって、久方ぶりの休みだった。

「郷試まで、あと一年だ。少しは根を詰めねばならんが、根の詰めすぎも毒よ」

 恵生堂の主人・趙は、そう言って、朱慈煥をこの日、店の仕事から解いてくれた。試験に集中できるよう、時折こうして一日を空けてくれる。無愛想な男だが、その不器用な気遣いが、朱慈煥にはありがたかった。

 とはいえ、朱慈煥は机にかじりつきはしなかった。

 彼が向かったのは、潘家の書斎だった。

 郷試の勉強を口実に、潘家の蔵書を検めさせてもらう。それが、この頃の朱慈煥の、ささやかな楽しみになっていた。潘家は治水の名族の末裔であり、その書斎には、余所では見られぬ書物が、静かに眠っていた。

「ご随意に。うちの古い書物など、朱文殿のような若い方に読んでもらえる方が、本も喜びましょう」

 潘汝霖は、そう言って、快く書斎を開けてくれる。

 朱慈煥は、埃の匂いのする棚の前に立ち、一冊、また一冊と、背を検めていった。

 地元の古い『済寧州志』。運河の河工の覚書。潘季馴ゆかりの、治水の記録。どれも、この土地に根を張った家にしか伝わらぬ書物だった。

 そして、その一角に、それは、あった。

「……これは」

 朱慈煥の指が、一冊の、傷んだ書物の上で、止まった。

 宋応星の著作だった。

 『天工開物』ではない。かつて紫禁城で読んだ、あの産業技術の書とは、別の一冊。宋応星が著したとされる、詩韻をめぐる小さな書。

 朱慈煥は、そっと、それを手に取った。

――残っていたのか。

 胸の奥が、静かに、震えた。

 前世の記憶が、告げていた。宋応星という人は、『天工開物』のほかにも、いくつもの書を著した。だが、その多くは――後の世には、名だけを残して、失われる。書名は目録に記されながら、現物は、一頁も伝わらない。研究者たちが、「かつて存在した」と知るばかりで、二度と読むことの叶わぬ書物。

 その、失われるはずの一冊が、今、自分の手の中にある。

 数百年後、誰も読むことのできなくなる文字が、今、この指の下で、確かに、墨の匂いを放っている。

 朱慈煥は、頁を、そっと繰った。

 一字、一字を目で追う。急ぐでもなく、書き写すでもなく、ただひたすら読んだ。この書が、この世に確かに在ったことを、自分の目に、焼き付けるように。

 ――俺は、たぶん、この書を最後まで読んだ、数少ない人間の一人になる。

 そう思うと、奇妙な感慨が、胸に満ちた。

 寂しさとも、誇らしさとも、つかなかった。ただ、時の流れの中で、多くのものが失われていくこと。そして、その失われゆく一つに、今、こうして触れていること。その巡り合わせが、静かに、胸に沁みた。

 前世で、彼は史料を、文字の連なりとして扱った。だが今、彼は史料を、指先の温もりとして、知っている。

「……大切に、しなければな」

 誰にともなく、朱慈煥は呟いた。

 書斎の窓から、春の光が、静かに差し込んでいた。

 薬でもなく、経書でもなく、ただ古い書物と向き合うこの時間が、朱慈煥にとっては、何よりの休息だった。

 その同じ夜。

 済寧の繁華街の、とある酒楼の、奥まった一室。

陳永華は、灯を落とした部屋で、一人の男と、卓を挟んでいた。

 男は、四十がらみ。日に焼けた、頑健な体つき。だが、その目には、深い疲れと、隠しきれぬ憔悴が滲んでいた。かつて、済寧の西で、清に抗って旗を掲げた、榆園の一党の頭目だった男である。

「……よく、ここまで、生きて辿り着かれた」

 永華は、静かに、盃を満たした。

「西の話は、聞いている。堤を切られ、地道は水に沈み、兄弟の多くが、散ったと」

 男は、盃を見つめたまま、低く笑った。

「笑い話よ。水攻めだ。……我らは、地の底に潜って、清の兵を散々に苦しめた。だが、清の奴らは、兵で敵わぬと見るや、黄河の堤を切りおった。地の底の我らを、水で、洗い流したのだ」

 男の声が、震えた。

「義軍だ、忠義王だと、旗を掲げてな。……だが、蓋を開けてみりゃあ、腹を空かせた百姓の寄り集まりよ。清の大軍と、水の前には、ひとたまりもなかった」

 永華は、黙って聞いていた。

 治水の技で、義軍が、水に沈められる。第七章で、自分たちが治水の理に倣って賊を逸らしたことを、永華は思わずにいられなかった。同じ水が、あるいは知恵となり、あるいは、これほどの惨劇を生む。

「頭目殿」

 永華は、静かに切り出した。

「もう、旗を掲げて戦う時ではありません。今、表で明の旗を掲げる者は、清の的になるだけだ。西のあなた方が、それを、誰より知っておられる」

「……では、どうせよと」

「下野して潜伏なされませ」

 永華の声は、若いが、揺るがなかった。

「名を捨て、旗を捨て、百姓に戻り、商人に紛れ、この乱世の底に、深く、潜るのです。刀を捨てるのではない。刀を、土の下に、隠すのです。今すぐ振るうためではなく――いつか、真に振るうべき日のために」

 男は、若い永華の顔を、まじまじと見た。

「……小僧。お前さん、いくつだ」

「歳は、関わりありません」

 永華は、静かに答えた。

「大事なのは、生き延びることです。旗を掲げて、華々しく散った者は、数え切れぬほど見てきたでしょう。ですが、散った者に、次はない。生き延びた者にだけ、次の機がある。……表の戦は、もう、終わりました。これからは、裏の戦です」

「裏の、戦」

「官の目の届かぬ、地の下の網です」

 永華は、灯に照らされた男の目を、まっすぐに見た。

「運河に沿い、湖に沿い、素性を捨てた者たちが、兄弟の契りで結ばれる。誰が味方かは、契りの言葉で分かる。天を父とし、地を母とする、名もなき者たちの網。――そこに、あなた方の、生き残った兄弟の力が、要るのです」

 男は、長いこと、黙っていた。

 やがて、ゆっくりと、盃を干した。

「……お前さんの言うことは、正しいのかもしれん。だが、それで、何になる。旗を隠して、地に潜って――その先に、何がある」

「今は、まだ、申せません」

 永華は、静かに首を振った。

「ですが、いつか――掲げるに値する旗が、立つ日が来ます。その日まで、力を、蓄えておくのです。散らさず、絶やさず、地の下で」

 永華の胸には、あの人の――いや、あの方の、無防備な背中があった。

 三年前の夜道で立てた、誰にも明かさぬ誓い。掲げるに値する者が旗を掲げたとき、初めて旗は本物になる。その日を、この手で、たぐり寄せる。

 そのための、一人。そのための、一つの網。

「……不思議な小僧だ」

 男は、疲れた顔に、わずかな苦笑を浮かべた。

「お前さんの目を見ていると、なぜか、まだ何かが、あるような気がしてくる」

「では」

 永華は、静かに、盃を掲げた。

「生きて、その日を、待ちましょう」

 灯が、静かに揺れた。

 酒楼の外では、繁華街の喧騒が、何も知らぬげに、夜を賑わせていた。その喧騒の底で、一つの、名もなき網が、また一筋、静かに、その糸を伸ばしていた。

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