傅青主
永暦四年(一六五〇年)四月 山東省済寧州 恵生堂
その男が店に入ってきたとき、朱慈煥は、いつものように薬を量っていた。
年の頃は四十過ぎ。旅装のまま、背に薬籠を負っている。日に焼けた顔に、鋭くも、どこか飄々とした目。ただの行商人ではない、と一目で分かった。
身なりは質素だが、立ち居振る舞いに、隠しきれぬ品格があった。
「主人はおられるか。少し、薬材を分けてもらいたい」
男は、そう言って、棚をぐるりと見渡した。その目が、薬材の一つ一つを、玄人のものとして検めているのが、朱慈煥には分かった。
「主人は、あいにく出ております。手前でよろしければ、承ります」
朱慈煥が応じると、男は、ほう、という顔をした。
「若いのに、店を任されているのか」
それから、男は、いくつかの薬材を求めた。だが、その注文が、尋常ではなかった。並の行商や患家なら知らぬような、配合の妙を心得た、玄人の求め方だった。ある薬材について、男が産地と効能を確かめると、朱慈煥は、よどみなく応じた。さらに、その薬材と組み合わせたときの、注意すべき相性まで、そっと添えた。
男の目が、細くなった。
「……お前さん、ただの薬売りではないな。本草を、よく修めておる」
「見よう見まねにございます」
朱慈煥は、慎ましく答えた。だが、男は、なおも興味深そうに、いくつかの問いを重ねた。医方のこと、薬性のこと、時には、経書の一節まで。朱慈煥は、その一つ一つに、過不足なく応じていった。深く踏み込みすぎず、しかし、無知を装いもせず。
やがて、男は、満足したように、笑った。
「面白い。こんな運河端の薬舗に、これほど話の分かる若造がいるとはな」
男は、求めた薬材を包ませると代を払いふと、名乗った。
「わしは、傅青主という。山西の者だ」
朱慈煥の手が、包みを結ぶ途中で、わずかに止まった。
傅青主。
――傅山。
前世の記憶が、静かに、その名を照らし出した。字は青主。山西の人。明末清初の、稀代の奇才。医においては、後の世に『傅青主女科』の名を残す名医。書においては、当代随一と謳われた書家。加えて、詩文、絵画、諸子百家の学。さらには――清に仕えることを潔しとせず、遺民として生き抜いた、硬骨の士。
その多才ぶりゆえに、後の世に「学海」とも称される人物が、今、目の前に立っている。旅の薬籠を背負い、一人の行商の医者のような顔をして。
朱慈煥は、内心の驚きを、おくびにも出さなかった。
「……ご丁寧に。手前は、朱文と申します」
「朱文か、覚えておこう」
傅山は、その偽りの名を、繰り返した。そして、朱慈煥の顔を、しばし、興味深げに眺めた。
「妙な若造だ。薬を語る目と、経書を語る目が、まるで若木のようでいて、古井戸のようでもある。……ま、乱世にはいろんな者がおる。達者でな」
そう言い残すと、傅山は、薬籠を背負い直し、飄々と店を出ていった。
その後ろ姿を、朱慈煥は、静かに見送った。
――あの人が傅青主か。
多才にして、硬骨。医、書、詩、画、学――そのいずれをもってしても一流でありながら、生涯、清には膝を屈しなかった男。遊歴の途上で、たまたま、この運河端の薬舗に立ち寄った。ただ、それだけの邂逅だった。
だが、朱慈煥の胸には、静かな余韻が残った。
歴史の中で名を刻む人物が、こうして、何気ない旅の一幕として、自分の前を通り過ぎていく。その一人一人に、生身の目があり、声があり、旅の埃がある。書物の中で「傅山、字は青主」と読んでいた頃には、決して分からなかったことだった。
「……達者で、か」
朱慈煥は小さく呟き、また薬を量る手に戻った。
運河を渡る風が、開け放った戸口から、薬の匂いを、そっと運び出していった。




