書を積む馬
永暦四年(一六五〇年)五月 山東省済寧州 城外
その日、朱慈煥は、城外へ薬草を採りに出ていた。
初夏の陽が、運河の水面を、白く照り返している。街道の脇の木陰に、一頭の馬が繋がれ、その傍らで、一人の男が休んでいた。
朱慈煥の足が、止まった。
――なんだ、あれは。
馬の背に、書物が、山と積まれていたのだ。
行李に詰め、縄で括り、鞍の左右に振り分けて――およそ、旅の荷とは思えぬ量だった。人を乗せる余地など、ありはしない。あれでは馬は、乗り物ではなく、書物を運ぶためだけの獣だ。
朱慈煥は、吸い寄せられるように、その馬に近づいていた。
積まれた書物の背が、見える。地方志。史書。金石の拓本。地理の書。どれもこれも、旅の徒然に読むような、風雅な類ではない。実地を調べ、文献と突き合わせるための――研究のための、書物だった。
「……何か御用かな?」
木陰から、声がかかった。
朱慈煥は、はっと我に返った。
木陰に座っていた男が、こちらを見ていた。年の頃は四十に手が届くか。旅塵にまみれた身なりだが、その目は、驚くほど澄んで、鋭かった。膝の上には、書きかけの帳面と筆。傍らには、この地の何かを写し取ったらしい、拓本の紙。
「これは、失礼を」
朱慈煥は、慌てて頭を下げた。
「あまりに書物の数が多かったもので、つい……無礼を、お許しください」
男は、少し目を細めた。
「書物に興味があるのか?」
「はい。……旅に、これほどの書を携える方を、初めて見ました」
「なるほど」
男は面白そうに口の端を上げた。
「わしはこの馬に書を積んで天下を歩いておる。一つの土地に着けばまず、書に記された事を、この足で確かめる。地形を見、碑を読み、土地の古老に聞く。そして、書が誤っておれば、書の方を直す」
朱慈煥の胸が静かに鳴った。
――文献と実地の、突き合わせ。
それはまさしく前世で彼が学んだ、学問の作法そのものだった。書斎に座して典籍を弄ぶのではなく、その足で歩き、目で見て、耳で聞いて、記された事の真偽を確かめる。
こんな時代に、そんなことをたった一人で、馬に書を積んでやっている男がいる。
「……失礼ながら、名を伺っても?」
朱慈煥の声が、わずかに上ずった。
男は、筆を置き、こともなげに答えた。
「顧寧人という。江南、崑山の者だ」
顧寧人。
――顧炎武。
朱慈煥は、息を呑んだ。
前世の記憶がその名を烈しく照らし出した。字は寧人。江南崑山の人。明の滅亡を経てなお清に仕えず、生涯を各地の流浪に費やした遺民の学者。そして、その徹底した実証の学によって後の三百年の学問の礎を築き――清代考証学の祖と仰がれることになる巨人。
「天下興亡、匹夫にも責あり」――後世、そう語り継がれることになる気概の持ち主。
その人が今、目の前の木陰に座り、旅塵にまみれ、書きかけの帳面を膝に載せている。
朱慈煥は、深く、頭を下げた。
「……手前は、朱文と申します。この先の済寧の薬舗に、厄介になっております」
「薬屋の若造が、薬学の書以外の書に足を止めたか」
顧炎武は愉快そうに笑った。
「よい。座れ。旅の話でも聞いていくがいい」
それから、しばらく、二人は話した。
顧炎武の語る話は、朱慈煥の心を捉えて離さなかった。
北の関所の地形。荒れ果てた駅路。塩の道の実情。碑文と地方志の食い違い。土地ごとの水利の違いと、それが民の暮らしをどう左右するか。
すべてがこの人が自分の足で歩き、自分の目で見てきたものだった。
「書物に『ここに城あり』とあれば、行ってみる。すると、城などない。あるのは畑と、老いた石碑だけよ。……では、書物が嘘をついたのか。いや、書かれた頃には、確かにあったのだ。移ろったのだ、時が。それを書物だけでは決して知れぬ」
朱慈煥は、身を乗り出して聞いた。
――前世の自分は書斎の人間だった。史料を読み論文を書いた。だがこの人のように、こんな乱世にその土地を歩き尽くし、自ら疑い自ら確かめる。そこまでは、できなかった。
「顧先生」
気づけば、朱慈煥は、そう呼びかけていた。
「先生は、なぜそこまでなさるのですか?こんな乱世です。学問など、腹の足しにもならぬと、誰もが申します」
顧炎武の目が、ふと、遠くなった。
「役に立たぬ学問なら、確かに要らぬ」
そして、静かに言った。
「わしはな、明が、なぜ滅んだのかを、知りたいのだ」
顧炎武は続けた。
「賊が強かったからか。清が強かったからか。……違う。滅ぶべくして、滅んだのだ。田は荒れ、水路は詰まり、税は乱れ、役人は民を絞った。書斎の学者どもは、それを見もせずに、ただ経書の講釈をしておった」
顧炎武の声に、初めて、抑えた怒りが滲んだ。
「だからわしは、歩く。この目で、荒れた田を見る。詰まった水路を見る。土地の者に、税がどう取られたかを聞く。……そうして、書に記された事と、実際に起きた事の、どこがどう食い違っておったのかを、一つ残らず書き留めておく」
「それを、書き留めて――どうなさるのですか」
「わし一人では、どうにもならぬよ」
顧炎武は、あっさりと言った。
「だが、いつか、この乱世が終わる。誰が天下を取るかは知らぬ。だがその時、この国を建て直そうという者が、必ず出る。……その者が、わしの書き残したものを読めば、こう思うだろう。ああ、明はここで間違えたのだな、と」
顧炎武は、膝の上の帳面を、軽く叩いた。
「同じ過ちを、二度繰り返させぬ。そのための、覚書よ。……剣を取って死ぬのは、たやすい。だがわしは、死ぬより、書き残す方を選んだ。それだけの話だ」
――――
「朱兄。こんなところにおられましたか」
声がしたのは、それからしばらく経った頃だった。
陳永華が、街道の方から歩いてくる。恵生堂の使いか何かで、外に出ていたのだろう。
「永華。ちょうどいい」
朱慈煥は、手招きをした。
「顧先生。これは、私の友人で、陳永華と申します。……永華。こちらは、顧寧人先生。江南から、天下を歩いて回っておられる、大変な学者だ」
永華の目が、馬に積まれた書物の山を捉え――そして、その主を、まじまじと見た。
「陳永華と申します。……失礼ながら、これほどの書を携えて旅をなさる方に、初めてお目にかかりました」
「はっはっは、若い者は皆、同じことを言うな」
顧炎武は、笑った。
それから、しばらく、三人で話した。
だが、朱慈煥は、途中から、妙なことに気づいていた。
永華の問いが、変わっていったのだ。
最初は、書物の話、旅の話をしていた。だが次第に、永華は、こんなことを尋ね始めた。北の民の、清への思いはどうか。江南の遺民たちは、今、どうしているか。各地で、まだ明を慕う者は、どれほどいるのか――と。
顧炎武は、その一つ一つに、慎重に、しかし言葉を選びながら答えていた。
朱慈煥は、内心で首をひねった。ずいぶん、そういうことに、関心があるらしい。学問の話より、そちらの方が、身を乗り出している。
やがて、日が傾き始めた。
「では顧先生。長々とお邪魔いたしました」
朱慈煥が礼を述べ、二人は木陰を辞した。
「達者でな、若い衆」
顧炎武は、片手を挙げて、二人を見送った。
済寧への帰り道。
しばらく歩いたところで、永華が、ふと足を止めた。
「朱兄。すみません、忘れ物をしました。先に戻っていてください」
「忘れ物?」
「うっかり、木陰に置いてきたようです。すぐに追いつきますので」
永華は、そう言って、来た道を、足早に引き返していった。
朱慈煥は、その背を見送り、少し首をかしげたが、深くは考えなかった。
――そういえば、あいつ、忘れるようなもの持っていたか?
夕暮れの街道を、一人、済寧へと歩き出した。




