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明末の麒麟児  作者: sawami
第8章
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書を積む馬

永暦四年(一六五〇年)五月 山東省済寧州 城外


 その日、朱慈煥は、城外へ薬草を採りに出ていた。

 初夏の陽が、運河の水面を、白く照り返している。街道の脇の木陰に、一頭の馬が繋がれ、その傍らで、一人の男が休んでいた。

 朱慈煥の足が、止まった。

――なんだ、あれは。

 馬の背に、書物が、山と積まれていたのだ。

 行李に詰め、縄で括り、鞍の左右に振り分けて――およそ、旅の荷とは思えぬ量だった。人を乗せる余地など、ありはしない。あれでは馬は、乗り物ではなく、書物を運ぶためだけの獣だ。

 朱慈煥は、吸い寄せられるように、その馬に近づいていた。

 積まれた書物の背が、見える。地方志。史書。金石の拓本。地理の書。どれもこれも、旅の徒然に読むような、風雅な類ではない。実地を調べ、文献と突き合わせるための――研究のための、書物だった。

「……何か御用かな?」

 木陰から、声がかかった。

 朱慈煥は、はっと我に返った。

 木陰に座っていた男が、こちらを見ていた。年の頃は四十に手が届くか。旅塵にまみれた身なりだが、その目は、驚くほど澄んで、鋭かった。膝の上には、書きかけの帳面と筆。傍らには、この地の何かを写し取ったらしい、拓本の紙。

「これは、失礼を」

 朱慈煥は、慌てて頭を下げた。

「あまりに書物の数が多かったもので、つい……無礼を、お許しください」

 男は、少し目を細めた。

「書物に興味があるのか?」

「はい。……旅に、これほどの書を携える方を、初めて見ました」

「なるほど」

男は面白そうに口の端を上げた。

「わしはこの馬に書を積んで天下を歩いておる。一つの土地に着けばまず、書に記された事を、この足で確かめる。地形を見、碑を読み、土地の古老に聞く。そして、書が誤っておれば、書の方を直す」

朱慈煥の胸が静かに鳴った。

――文献と実地の、突き合わせ。

 それはまさしく前世で彼が学んだ、学問の作法そのものだった。書斎に座して典籍を弄ぶのではなく、その足で歩き、目で見て、耳で聞いて、記された事の真偽を確かめる。

 こんな時代に、そんなことをたった一人で、馬に書を積んでやっている男がいる。

「……失礼ながら、名を伺っても?」

 朱慈煥の声が、わずかに上ずった。

 男は、筆を置き、こともなげに答えた。

「顧寧人という。江南、崑山の者だ」

 顧寧人。

――顧炎武。

 朱慈煥は、息を呑んだ。

 前世の記憶がその名を烈しく照らし出した。字は寧人。江南崑山の人。明の滅亡を経てなお清に仕えず、生涯を各地の流浪に費やした遺民の学者。そして、その徹底した実証の学によって後の三百年の学問の礎を築き――清代考証学の祖と仰がれることになる巨人。

「天下興亡、匹夫にも責あり」――後世、そう語り継がれることになる気概の持ち主。

 その人が今、目の前の木陰に座り、旅塵にまみれ、書きかけの帳面を膝に載せている。

 朱慈煥は、深く、頭を下げた。

「……手前は、朱文と申します。この先の済寧の薬舗に、厄介になっております」

「薬屋の若造が、薬学の書以外の書に足を止めたか」

 顧炎武は愉快そうに笑った。

「よい。座れ。旅の話でも聞いていくがいい」

 それから、しばらく、二人は話した。

 顧炎武の語る話は、朱慈煥の心を捉えて離さなかった。

 北の関所の地形。荒れ果てた駅路。塩の道の実情。碑文と地方志の食い違い。土地ごとの水利の違いと、それが民の暮らしをどう左右するか。

 すべてがこの人が自分の足で歩き、自分の目で見てきたものだった。

「書物に『ここに城あり』とあれば、行ってみる。すると、城などない。あるのは畑と、老いた石碑だけよ。……では、書物が嘘をついたのか。いや、書かれた頃には、確かにあったのだ。移ろったのだ、時が。それを書物だけでは決して知れぬ」

 朱慈煥は、身を乗り出して聞いた。

――前世の自分は書斎の人間だった。史料を読み論文を書いた。だがこの人のように、こんな乱世にその土地を歩き尽くし、自ら疑い自ら確かめる。そこまでは、できなかった。

「顧先生」

 気づけば、朱慈煥は、そう呼びかけていた。

「先生は、なぜそこまでなさるのですか?こんな乱世です。学問など、腹の足しにもならぬと、誰もが申します」

 顧炎武の目が、ふと、遠くなった。

「役に立たぬ学問なら、確かに要らぬ」

 そして、静かに言った。

「わしはな、明が、なぜ滅んだのかを、知りたいのだ」

 顧炎武は続けた。

「賊が強かったからか。清が強かったからか。……違う。滅ぶべくして、滅んだのだ。田は荒れ、水路は詰まり、税は乱れ、役人は民を絞った。書斎の学者どもは、それを見もせずに、ただ経書の講釈をしておった」

 顧炎武の声に、初めて、抑えた怒りが滲んだ。

「だからわしは、歩く。この目で、荒れた田を見る。詰まった水路を見る。土地の者に、税がどう取られたかを聞く。……そうして、書に記された事と、実際に起きた事の、どこがどう食い違っておったのかを、一つ残らず書き留めておく」

「それを、書き留めて――どうなさるのですか」

「わし一人では、どうにもならぬよ」

 顧炎武は、あっさりと言った。

「だが、いつか、この乱世が終わる。誰が天下を取るかは知らぬ。だがその時、この国を建て直そうという者が、必ず出る。……その者が、わしの書き残したものを読めば、こう思うだろう。ああ、明はここで間違えたのだな、と」

 顧炎武は、膝の上の帳面を、軽く叩いた。

「同じ過ちを、二度繰り返させぬ。そのための、覚書よ。……剣を取って死ぬのは、たやすい。だがわしは、死ぬより、書き残す方を選んだ。それだけの話だ」

――――

「朱兄。こんなところにおられましたか」

 声がしたのは、それからしばらく経った頃だった。

 陳永華が、街道の方から歩いてくる。恵生堂の使いか何かで、外に出ていたのだろう。

「永華。ちょうどいい」

 朱慈煥は、手招きをした。

「顧先生。これは、私の友人で、陳永華と申します。……永華。こちらは、顧寧人先生。江南から、天下を歩いて回っておられる、大変な学者だ」

 永華の目が、馬に積まれた書物の山を捉え――そして、その主を、まじまじと見た。

「陳永華と申します。……失礼ながら、これほどの書を携えて旅をなさる方に、初めてお目にかかりました」

「はっはっは、若い者は皆、同じことを言うな」

 顧炎武は、笑った。

 それから、しばらく、三人で話した。

だが、朱慈煥は、途中から、妙なことに気づいていた。

 永華の問いが、変わっていったのだ。

 最初は、書物の話、旅の話をしていた。だが次第に、永華は、こんなことを尋ね始めた。北の民の、清への思いはどうか。江南の遺民たちは、今、どうしているか。各地で、まだ明を慕う者は、どれほどいるのか――と。

 顧炎武は、その一つ一つに、慎重に、しかし言葉を選びながら答えていた。

 朱慈煥は、内心で首をひねった。ずいぶん、そういうことに、関心があるらしい。学問の話より、そちらの方が、身を乗り出している。

 やがて、日が傾き始めた。

「では顧先生。長々とお邪魔いたしました」

朱慈煥が礼を述べ、二人は木陰を辞した。

「達者でな、若い衆」

 顧炎武は、片手を挙げて、二人を見送った。

済寧への帰り道。

 しばらく歩いたところで、永華が、ふと足を止めた。

「朱兄。すみません、忘れ物をしました。先に戻っていてください」

「忘れ物?」

「うっかり、木陰に置いてきたようです。すぐに追いつきますので」

 永華は、そう言って、来た道を、足早に引き返していった。

 朱慈煥は、その背を見送り、少し首をかしげたが、深くは考えなかった。

――そういえば、あいつ、忘れるようなもの持っていたか?

 夕暮れの街道を、一人、済寧へと歩き出した。

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