衍聖公家
永暦五年(一六五一年)八月 山東省済南への街道
郷試の年が、来た。
朱慈煥は十七に、潘世璉は十六になっていた。四年前、震える手で童試の門をくぐったあの少年は、今や背も伸び、朱慈煥と肩を並べて歩いている。護衛として、陳志遠が一行に加わっていた。
済寧から済南まで、二百数十里。秋の街道を、二人と一人は北へ進んだ。
その日、道が、妙に混んでいた。
「……止まっていますね」
世璉が、背伸びをして前を窺った。街道の先に、人だかりができている。荷を担いだ農夫も、行商人も、皆が道の端に寄って、何かを待っていた。
「賊でしょうか」
志遠が、警戒するように前へ出る。
だが、そうではなかった。
やがて、街道の向こうから、一行が現れた。
供揃えの整った、立派な行列だった。轎が一挺、その前後を従者が固め、荷を担ぐ者、馬の口を取る者。物々しさはない。だが、その隊列の整い方に、隠しようのない格式があった。
道端の人々が、次々と頭を下げていく。
「あれは……」
朱慈煥が呟くと、傍らの老いた行商人が、誇らしげに教えてくれた。
「曲阜の衍聖公様の御一族よ。あの若様が、郷試に済南へ向かわれるとさ」
老人の声には、隠しようのない畏敬が滲んでいた。
「かの孔子様の直々の血筋だ。代々、衍聖公として、天子様から一等の位を賜っておられる。朝廷の大臣より上に座られるお家柄よ、この山東で、孔家を知らん者はおらん」
――ああ。これが、そうか。
朱慈煥の胸に、灯がともったように、静かな熱が走った。
衍聖公家。
前世で、彼はこの一族を、幾度となく史料の上で扱った。王朝が興り、王朝が滅び、異民族が中原を制し、また漢人が取り返す――その二千年の激動を、ただ一つ、微動だにせず生き延びた血。孔子の嫡系。滅びない家。
論文では、それを「儒教国家の正統性を担保する装置」などと、味気ない言葉で書いた。統治者は、誰であれ、儒を掲げねば漢人を治められない。ゆえに孔家は王朝が変わるたびに、新たな主から真っ先に厚遇される。清もまた入関したその年に、衍聖公の位を明の頃と寸分違わず安堵した。
今、目の前を、その「装置」が、生身の人間として歩いている。
轎があり、供揃えがあり、書物を抱えた若者がいて、道端の老婆が拝むように手を合わせている。二千年、王朝の交代を越えて受け継がれてきた血が、今この瞬間、この街道の埃の中を、確かに歩いているのだ。
朱慈煥は、その光景から、目を離せなかった。
――生きているのか。今も、こうして。
学者としての血が騒ぐ。もっと見たい。もっと知りたい。この一族が、この乱世を、どんな顔をして渡っているのか。史料の行間に、決して残らないものを、この目で見たい。
そして、そのすぐ後に、もう一つの思いが、静かに追いついてきた。
――我が家は、どうだろうな。
朱明は、まだ滅びてはいない。南では永暦帝が、海では鄭成功が、なおも戦っている。そして――名を偽り、髪を切り、こうして敵国の試験に赴く自分もまた、確かに、朱の血を引く一人だ。
だが、その「滅びていない」は、あまりに心もとない。
逃げ、隠れ、追われ、名を捨てて、それでようやく繋がっている一本の細い糸。それが、今の朱明だ。
一方、聖人の血は、揺らぎもしない。
王朝が変わろうと、辮髪の主が来ようと、堂々と道の真ん中を歩き、人々に拝まれている。逃げも隠れもせず、何一つ失わずに。
――同じ「続いている」でも、ずいぶんと、格好が違う。
朱慈煥は、内心で、少しだけ苦笑した。
滅びる家と、滅びない家。その違いは、忠義でも、勇気でもない。ただ、盤面の上で、どう置かれているかだ。孔家は、天下を治める者にとって、常に必要とされる血だった。誰が皇帝になろうと、儒を掲げねば漢人は治まらぬ。だから、決して滅びない。
朱明は、そうではなかった。それだけの話だ。
――上手いこと、置かれたものだ。
孔家の一行は、静かに、街道を過ぎていった。
若者の顔を、朱慈煥は見た。だが、彼が見たのは、「聖人の裔として敬われている若者」という、それだけの姿だった。
その目に、何が宿っていたのか。
朱慈煥は、気づきもしなかった。




