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明末の麒麟児  作者: sawami
第8章
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済南

永暦五年(一六五一年)八月 山東省済南府

 

 済南の城壁が見えてきたのは、翌日の昼過ぎだった。

「……大きい」

 世璉が、圧倒されたように呟いた。

 無理もない。済寧も運河の要衝として賑わう町だが、済南は山東一省の首府である。城郭の規模も、行き交う人の数も、桁が違った。

 城内に入ってしばらく歩くと、そこかしこで、水が湧き出していた。

 石で囲われた泉の底から、砂を巻き上げながら、清冽な水が絶え間なく噴き上がっている。町の女たちが桶を沈め、子どもが手を浸し、商家が野菜を洗う。泉から溢れた水は、細い流れとなって石畳の間を走り、やがて城内の池へと注いでいく。

「泉の都、と申しますからな」

 宿の主人が、誇らしげに教えてくれた。

「済南には、数え切れんほどの泉が湧きます。名のあるものだけでも、七十二を数えると申しましてな。中でも趵突泉などは、水が三尺も噴き上がります。天下第一泉と、宋の頃から称されておりますよ」

 朱慈煥は湧き上がる水をしばし見つめていた。

泉城。

 済水の南にあるゆえの済南。町のいたるところから水が湧き、名のある泉だけで七十二を数える。前世で、地理の書物を繰るたびに、その記述は目にしていた。

 だが、書物は水の音までは伝えなかった。

 石を打つ音。絶え間ない湧出の、低いざわめき。桶を沈める女たちの声。

 朱慈煥は、手を浸してみた。

 八月の暑さの中で、その水だけが、別の季節から来たように冷たかった。

――なるほど。冷たいのだな。

 それだけの確認だった。だが、そのささやかな確認のために彼は前世で何度この町の名を読んだか分からない。

「朱文殿?」

 世璉が不思議そうに覗き込んだ。

「いや。何でもない」

 朱慈煥は、手を引き、水滴を払った。

 宿は、貢院からほど近い一角に取った。

 郷試の時期だけあって、済南の宿という宿は生員たちで埋まっていた。山東一省から数千人が集まってくる。老いた者、若い者。何度目かの挑戦だという者もいれば初めての者もいる。

 宿の廊下ですれ違う顔は、どれも一様に、張り詰めていた。

「明日から、九日間ですね」

 部屋に落ち着くと、世璉がそっと言った。

その声が、わずかに震えている。

 朱慈煥は少年の横顔を見た。四年前、童試の朝に見たあの強張った顔と同じものがそこにあった。背は伸び、声も変わったが緊張だけは変わっていない。

「怖いか」

「……はい」

 世璉は、正直に答えた。

「童試とは、違うと聞きました。三日間、号舎から出られないと。飯も、眠るのも、みんなあの狭い箱の中で……。倒れる者もいると」

「倒れるさ」

 朱慈煥は、あっさりと言った。

「三日を三度、九日間だ。雨が降れば吹き込むし、暑ければ蒸される。答案に墨をこぼせば、それで終わりだ。……試されるのは、学問だけじゃない。身体と、辛抱強さだよ」

「……脅かさないでください」

「本当のことだ」

 朱慈煥は、少し笑った。それから、世璉の肩を、軽く叩いた。

「だが君は、四年前も最後まで書き切った。あの時、俺は隣で見ていた。器用ではなかったが、筆を止めなかった。……九日間も、同じことだよ。長いだけで、やることは変わらない」

 世璉は、しばらく黙っていた。

 それから、少しだけ、肩の力を抜いた。

「……はい」

 その夜、朱慈煥は、宿の一室で筆墨を検めた。

筆、墨、硯。替えの筆も用意した。持ち込める食料は、乾いた餅と、干した棗。水は、貢院で汲めると聞いている。

 そして、薬。

 胃の腑を落ち着かせるもの。頭の熱を冷ますもの。腹を下したときのもの。狭い号舎で三日を過ごせば、何が起きるか分からない。薬材商としての年月が、こういう時に役に立つ。

「志遠。試験の間、世璉のことをまた頼めるか?」

 朱慈煥が言うと、志遠は頷いた。

「もちろんです。貢院の外で、待っております。……ですが、中では、何もして差し上げられません」

「それでいい。外にいてくれるだけで、違う」

 朱慈煥は、荷を結び終えた。

 窓の外では、まだ泉の音が、微かに聞こえている。

 町の底から、絶え間なく水が湧き続けている。人が来ようと、去ろうと、王朝が変わろうと、この泉だけは、変わらずに湧き続けてきたのだろう。

――明日から、九日間。

 朱慈煥は、灯を消した。

 その狭い箱の中で、自分は何を書くのだろうか。四年前、童試の答案に「治国平天下」を書いたときのことを、ふと思い出した。

 あの時と、今と。何か、変わっただろうか。

答えは出なかった。

 泉の音を聞きながら、朱慈煥は、静かに目を閉じた。

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