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明末の麒麟児  作者: sawami
第8章
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九日間の始まり

永暦五年(一六五一年)八月九日 済南府 貢院前


 まだ、夜も明けきらぬ刻限だった。

 貢院の門前には、すでにおびただしい数の人が集まっていた。

 童試のときとは比べものにならなかった。あのときは済寧一州の童生が集まるだけだった。だが今は、山東一省から数千人の生員がこの一点に押し寄せている。松明の火が長蛇の列を、赤々と照らし出していた。

「……これは」

 世璉が人の波に呑まれそうになりながら呟いた。

「すごい数、ですね」

「山東中の秀才が、ここに集まっているんだ」

 朱慈煥は列に並びながら前方を見た。

 門の前で何かが行われている。受験者が一人ずつ足止めされていた。

 門の前で行われているのは、不正が無いかを検める搜検だった。

 だがそれは、童試のときの比ではなかった。

 役人と兵が受験者を一人ずつ徹底的に検めていた。衣を脱がせ、髪を解かせ、履物の底まで検める。持ち込む筆墨、硯、食料——そのすべてが、一つ残らず、改められていく。

「あそこを、見てください」

 志遠が、列の前方を、そっと指した。

 門の脇で、一人の男が、兵に腕を掴まれていた。

「なんだ、何をする!」

 男が喚くが、兵は容赦しなかった。男の筆の軸が、へし折られる。中から、細く巻かれた紙が、するりと零れ落ちた。

 小指ほどの豆本だった。

 紙をこより状に巻き、経書の要点を、蟻のような小さな字で、びっしりと書き込んである。筆の軸を、密かにくり抜いて、その中に隠していたのだ。

「不正だ! この者を、引き出せ!」

 役人の声が飛び、男は、腕を捻り上げられて、列の外へ引きずり出されていった。

「……あんなものまで」

 世璉が青ざめた。

 だが、それで終わりではなかった。

 別の男は、持ち込もうとした饅頭を割られた。ほかほかと湯気を立てるその中から油紙に包まれた豆粒のような冊子が現れた。食い物の中に答えを隠していたのだ。その男も引き出された。

さらに、別の者は、下着の縫い目に。別の者は、硯の裏の、二重底に。

 次から次へと不正が暴かれ、そのたびに受験者が列から引きずり出されていく。まだ試験も始まらぬうちから、罪人のように連行されていくその姿を世璉は、身を強張らせて見つめていた。

「……あんなに、隠すのですね」

 少年の声は怯えに掠れていた。自分の番が近づくにつれ、後ろ暗いことなど何もないはずの世璉まで、まるで咎人のような心地にさせられていくのだった。

 朱慈煥は、それを、黙って見ていた。

――必死なのだな。皆。

 この試験に人生が懸かっている。受かれば挙人。身分が上がり官への道が開ける。落ちればまた三年、あの狭い号舎の日々を待つしかない。三年に一度のたった一度の機会。その重みが人を不正に手を伸ばさせる。

 責める気にはなれなかった。

 もっとも、朱慈煥自身はそんなものは必要としない。四書五経は前世で頭に入っている。持ち込むべきは筆と墨とわずかな食料と薬。それだけだった。

 やがて順番が回ってきた。

「次!」

 朱慈煥は進み出た。

 役人の手が、衣の上から身体をなぞり、袖を検め髪を解いて改める。筆墨が一つ一つ検められ、乾いた餅が割られ、干し棗がひっくり返され、薬包が開かれた。

「これは何だ」

 役人が薬包を鋭く見た。

「胃の腑と、頭の熱のための薬にございます。長丁場ゆえ、備えに」

 朱慈煥は落ち着いて答えた。薬包の中身は、ただの薬草だ。刻んだ乾物にしか見えぬそれを、役人は疑わしげに検めたが、やがて顎で先を促した。

「……よし。通れ」

「ありがとうございます」

 朱慈煥は荷を検め直し門をくぐった。

 すぐ後ろで、世璉も搜検を終えた。少年の顔は強張っていたが無事に通った。

「……緊張しました」

「後ろ暗いことが、何もなくてもか」

「何もなくても、です」

 世璉が、掠れた声で言った。朱慈煥は、小さく笑った。

 門の内側で、二人は、いよいよ別れることになった。

 号舎は受験者ごとに割り当てられている。それぞれの席は籤で決まる。朱慈煥と世璉が隣り合うことはまずない。ここから先は一人だった。

「世璉」

 朱慈煥は、少年を見た。

「この九日間は長いぞ。だが焦るな。書けるところから書け。体を冷やさず、眠れるときに眠れ。……そして、墨だけはこぼさないように」

「……はい」

「終わればまた会える。志遠も外で待っている。それだけ覚えておけばいいよ」

 世璉はぐっと、唇を結んだ。

 それから、深く頷いた。

「行ってきます」

 少年は自分の号舎の方へ歩いていった。その背は四年前よりずっとしっかりとしていた。

 朱慈煥は、その背を見送り自分の号舎の番号を改めて確かめた。

 広大な貢院だった。号舎が見渡す限り整然と並んでいる。数千の板で仕切られた小さな箱。その一つ一つに、これから一人ずつが籠もる。山東中の学問と、野心と、祈りが、この一画にぎっしりと詰め込まれていた。

 朱慈煥は、自分の号舎に辿り着いた。

 三方を板壁に囲まれた、狭い空間。人一人がようやく座れるほどの広さ。中には板が二枚。上を机とし、下を椅子とする。夜は上の板を下ろして、その上で寝るのだという。

 朱慈煥はその狭い箱の中に身を入れた。

 荷を置き、硯を据え、墨を、静かに磨り始める。

――さて。

 長い長い時間が、始まる。

 号舎の外ではまだ受験者たちが列をなし、搜検の喧騒が続いていた。だが、この箱の中に入れば聞こえるのは、自分の墨を磨る音だけだった。

 朱慈煥は、静かに、息を整えた。

 そして、その時を待った。

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