郷試
永暦五年(一六五一年)八月 済南府 貢院
夜が明けきると、試題が配られた。
郷試は三場に分かれている。第一場は四書と五経から出される八股文。経書の一句を題として与えられ、聖人になりかわってその意を定められた対句の型に沿って論じる。九日間の合否を最も大きく左右するのがこの第一場だった。
その、四書題が――
『志士仁人、身を殺して以て仁を成すこと有り』
論語の一句だった。志ある士、仁ある人は、我が身を殺してでも、仁を成し遂げることがある――殉節を命がけの忠義を称える句である。
朱慈煥は、思わず、口の端を歪めそうになった。
――よりによって、これか。
身を殺して、仁を成す。
自分が、最も遠いところに置いてきた生き方だった。死んだ忠義より、生きて為す。形だけ従い、心は渡さない。そう決めて、髪を切り、死を装い、ここまで生き延びてきた。その自分が、清の試験で、聖人になりかわって、「身を殺す」ことの尊さを、朗々と論じねばならない。
童試の「治国平天下」を、ふと思い出した。あのときは、乾いた可笑しさだった。だが今度のは、もっと、皮肉が骨に近い。
だが、筆は止めなかった。
型は頭に入っている。朱子の解釈もそらんじている。破題を起こし承題で受け股を対で連ねていく。「身を殺して仁を成す」ことの尊さを聖人の口吻で淀みなく書き連ねた。
――書いてやるさ。
心の中で朱慈煥はそっと呟いた。
殉じる者の尊さを否定するつもりはない。史可法も、沈雲英の父も陳永華の父も皆、身を殺して仁を成した。その死を軽んじる気はない。
ただ、自分はそれを選ばなかった。それだけのことだ。
生きて為す。
筆が紙の上を静かに走った。
第一場の三日間はまだよかった。
問題はその後だった。
号舎は狭かった。人一人がようやく座れる箱。上の板が机、下の板が椅子。夜は上の板を下ろして、その上で丸くなって眠る。身体を伸ばすこともできない。
八月の残暑がその箱の中にこもった。
昼は蒸された。板壁が陽を吸い箱の中はまるで蒸籠のようだった。汗が絶え間なく背を伝う。持ち込んだ乾いた餅は二日目には固くなり干し棗は甘ったるく喉に貼りついた。水は貢院の井戸から汲めたが生ぬるかった。
夜は逆に冷えた。薄い単衣一枚で板の上に丸くなる。虫が耳元で鳴く。隣の号舎の寝返りの音、咳、うめき。無数の他人の気配が薄い板一枚を隔てて、すぐそこにある。それでいて誰とも口をきけない。
――うへぇ。
朱慈煥は四日目の朝、固くなった餅をかじりながら思わず胸の内で呻いた。
前世の知識も八股の型も、こればかりはどうにもならない。四書五経を諳んじていようと身体が音を上げるのは、皆と同じだった。腰が痛む。尻が痛む。首が回らない。頭がぼうっとする。
それでも書いた。第二場は公文書の書式だった。
詔、誥、表。詔は天子が下す命、誥は臣下への戒めの言葉、表は臣が天子へ奉る文。いずれも官として朝廷に仕えれば日々書くことになる実務の文である。経書の教養ではなく役人としての型がここでは問われた。型に神経を使いながら朱慈煥は一枚、また一枚と、仕上げていった。
そして第三場に入った。
第三場は時務策――現実の政治や実務についての策論だった。治水をどうするか。辺境の守りを、いかに固めるか。財政の乱れをどう正すか。経書の暗誦ではなく天下を治める具体の知恵がここで試される。
朱慈煥にとっては本来、最も書ける場だった。前世は歴史を修め、この四年は済寧で運河を見、塩の道を歩き、潘家で治水の書に触れてきた。書こうと思えばいくらでも書けた。
――だが、書きすぎは危険だ。
朱慈煥は、自らに言い聞かせた。挙人になって、目立つのは危うい。とりわけ、時務に通じすぎた答案は、人の記憶に残る。ほどほどに。及第しつつ、突出はしない。その匙加減がかえって難しかった。
その第三場の夜だった。
雨が降り出した。
最初は、ぱらぱらと。やがて、本降りになった。
号舎は正面が開け放たれている。屋根はあるが、風が吹き込めば雨は容赦なく、中へ吹き込んできた。
「――っ」
朱慈煥は慌てて答案懐へ抱え込んだ。
答案を濡らせばそれで終わりだ。墨が滲めば不合格。九日間の苦労が水の泡になる。
風向きが変わるたびに、雨が斜めに吹き込んでくる。朱慈煥は、身を盾にして書きかけの答案と、乾いた紙を必死に守った。硯に雨が入り墨が薄まる。
筆が湿る。片手で荷の油紙を引き出し頭上にかざして辛うじて雨を凌いだ。
貢院のあちこちから、同じようなあたふたとした物音と、押し殺した舌打ちが聞こえてきた。皆、同じだった。この狭い箱の中でたった数枚の紙を、雨から守るために、必死になっている。
――なんという試験だ。
朱慈煥は油紙を掲げたまま乾いた笑いが込み上げてくるのを感じた。
学問を問うはずの試験で、最後に試されているのは雨から紙を守るこの必死さなのだ。天下を論じる策を書きながら頭上に油紙をかざして雨に濡れまいと身を縮めている。滑稽で、そしてどこかこの乱世そのものに似ていた。
雨は夜半まで続いた。
雨が上がり、静けさが戻った、その明け方だった。
それは突然だった。
「――ぎゃあああっ!」
いくつか先の号舎から叫び声が上がった。
朱慈煥は、はっと顔を上げた。
「書けぬ! 書けぬのだ! ああ、もう、駄目だ! 終わりだ! 終わりだあっ!」
男の声だった。何かが崩れ落ちる音。板を掻きむしるような音。
「戻してくれ! 頼む、家に、帰してくれ! もう、いやだ! こんな箱の中は、もう――!」
錯乱していた。
九日間の重圧に心が折れたのだ。狭い箱に閉じ込められ、眠れず、書けず、追い詰められ――ついに正気を失ったのだろう。珍しいことではないと聞いていた。毎度の郷試で、必ず何人かはこうなるのだと。
やがて、役人と兵が駆けつける足音がした。男は、なおも喚いていた。泣き叫び、抗い、そして、引きずり出されていく。その声が貢院の静寂の中を、遠ざかっていった。
後には重い、しんとした静けさが残った。
朱慈煥は筆を置き、しばし、そのざわめきの消えた方を、見つめていた。
――紙一重だな。
背筋に冷たいものが走った。
自分は前世の知識がある。型も、答えも、頭に入っている。だから、書ける。だが、それでもこの九日間はこたえた。身体が軋み頭が濁り幾度となく投げ出したくなった。
もし、その知識がなければ。もし、この一枚に人生のすべてが懸かっていたなら。自分もあの男のように心を折られていたかもしれない。
あの叫びは、他人事ではなかった。
朱慈煥は生ぬるい水を一口含んだ。
そして静かに筆を執り直した。
第三場の時務策。まだ書き終えていない。
――最後まで書く。
それが今、自分にできるただ一つのことだった。
号舎の外では、雨上がりの空が、白み始めていた。
長い、長い九日間の終わりが近づいていた。




