蛇不見、蛙不鳴
永暦五年(一六五一年)八月 済南府 大明湖
九日間が終わった。
最終日の夕暮れ、朱慈煥と世璉はふらつく足で、貢院の門を出た。二人ともげっそりとやつれ、目の下には濃い隈が刻まれていた。外で待っていた志遠が二人の顔を見るなり、絶句したほどだった。
その夜は宿で泥のように眠った。
翌日も、その次の日も、二人は半ば眠るようにして過ごした。書き上げた答案のことも合否のことも考える気力すら湧かなかった。ただ、身体が休息を求めていた。
三日ほど経って、ようやく人心地がついた頃。
「……どこか、歩きに行くか」
朱慈煥がそう言い出した。
「ずっと寝てばかりではかえって身体が鈍る。済南は泉の都だ。少し風に当たろう」
こうして、三人は大明湖へ向かった。
大明湖は済南の市街の中にありながら、驚くほど広い湖だった。街の泉が集まり流れ込んで、大きな水を湛えている。
岸辺に立つと、視界が一気に開けた。
水面が秋の光を受けて静かに光っている。岸には柳が枝を垂れ、湖のあちこちに、枯れ始めた蓮の葉が、点々と浮かんでいた。遠くには、千仏山の稜線が、薄く霞んでいる。その山影が、水面に、ぼんやりと映っていた。
「……広い」
世璉が、ぽつりと言った。
その声には、九日間、狭い箱に閉じ込められていた者の心からの実感がこもっていた。
「あの箱の中とは大違いだな」
朱慈煥も水面を眺めながら言った。
二人とも目の下に濃い隈を残したままだった。やつれた顔で並んでただ広い水を眺めている。その広がりがこわばった身体を少しずつほどいていくようだった。
しばらく二人は黙って水を見ていた。
やがて世璉が、ふと首をかしげた。
「……朱文殿。妙ですね」
「何が」
「静かすぎます」
世璉は、湖のほとりを見回した。
「これだけ蓮があって、水辺なのに……蛙の声が、しません。夏の名残の時期ならうるさいくらい鳴いていてもよさそうなのに」
朱慈煥は、耳を澄ませた。
確かに蛙の声がしなかった。あれほどの蓮と葦がありながら水辺特有のあの騒がしい鳴き声が、まるで聞こえない。
「そういえば宿の主人が言っていたな」
朱慈煥は思い出して言った。
「大明湖には、昔から、言い伝えがあるそうだ。『蛇不見、蛙不鳴』――蛇は見えず、蛙は鳴かず、と。この湖ではなぜか蛇の姿を見ず、蛙も鳴かないのだと」
「なぜですか?」
「土地の者は霊験だと言う。名の高い、めでたい湖ゆえだと」
朱慈煥はそう言って水面に目を戻した。
世璉が感心したように湖を見渡す。
「へえ……不思議なこともあるものですね。やはり、名のある湖は違うのですね」
朱慈煥はそれにはすぐには答えなかった。
内心では別のことを考えていた。
――おおかた、泉のせいだろう。
この湖には済南中の泉が絶えず流れ込んでいる。地の底から湧く水は冷たい。前世で知り合った生物学者の友人が蛙は冷たい水を好まないから産卵にも棲むにも向かず寄りつかないというとのことらしい。蛇もその蛙を追ってこない。霊験でも瑞兆でもない。ただ水が冷たかったから。それだけの理だ。
だが、朱慈煥はそれを口にしなかった。
世璉は、「不思議だ」「霊験だ」と、素直に感心している。その顔は、九日間の疲れの中で、久しぶりに晴れやかだった。わざわざ理を説いてその小さな驚きを無粋に潰すこともない。
「……そうだな」
朱慈煥はただ、そう応じた。
「名のある湖は、静かなものらしい」
理由がどうあれ、この湖が静かなのは確かなことだった。
蛙の鳴かない、静かな水辺。
その静けさが朱慈煥にはありがたかった。
この九日間耳にこびりついていたのは無数の嫌な物音だった。隣室の咳、うめき、寝返り。役人の足音。そして、あの、心の折れた男の、引きずり出されていく叫び。狭い箱の中で、他人の気配に、四六時中、晒され続けた。
それに対し、この蛙さえ鳴かない静寂である。
水面を渡る風が、柳の葉を、さらさらと揺らしていく。聞こえるのはその葉音と、遠くのかすかな人のざわめきだけ。
――静かだ。
朱慈煥は大きく息を吸った。
九日間、箱の中に詰め込まれていた何かがその広い水面へ少しずつ溶け出していくようだった。
「……終わりましたね」
世璉が、しみじみと言った。
「終わったな」
「受かっているでしょうか?」
「さあ?」
朱慈煥は水面を眺めたまま答えた。
「書くだけは書いた。あとは待つだけだ。……今はそれよりこの静けさを味わっておこう。九日間、頑張ったんだ。それくらいの褒美はあっていい」
世璉は少し笑った。そして、朱慈煥の隣で同じように広い水面を眺めた。
二人の隈の刻まれた顔を秋の光が静かに照らしていた。
蛙の鳴かない湖はどこまでも穏やかだった。




