合格発表で喜ぶ人もいれば絶望する人もいる
永暦五年(一六五一年)九月 済南府
放榜の日が来た。
九月、桂の花が香る頃である。郷試の合格発表は「桂榜」とも呼ばれ、この時期に貢院の前の壁へ大きな榜が貼り出される。
その朝、朱慈煥と世璉、志遠の三人は、貢院前の人だかりの中にいた。
おびただしい数の人が詰めかけていた。受験した生員、その家族、そして野次馬の群れ。誰もが貼り出される一枚の榜に、我が身の、あるいは我が子の運命を懸けて、固唾を呑んでいた。
やがて役人が現れ、榜が掲げられていく。
名は下位から順に読み上げられていった。慣例である。最下位から始まり、一つずつ上へ。最後の最後に、首席たる解元の名が明かされる。その焦らすような順序が、人々の心をいやが上にも掻き立てた。
「潘世璉!」
中ほどを少し過ぎたあたりだった。
その名が読み上げられた瞬間。
「――え」
世璉がぽかんと口を開けた。
「……い、今、僕の名が」
「呼ばれたな」
朱慈煥が言うと、世璉の顔がみるみる赤く染まっていった。
「う、受かった……? 僕が? 本当に?」
「間違いない。潘世璉は、君だけだ」
「受かった……受かったぁっ!」
世璉が跳び上がった。
九日間、隈をつくって耐えた少年が、今、子どものようにその場で飛び跳ねている。
「志遠殿! 僕、受かりました! 挙人です! 父上に早く知らせなきゃ! ああ、信じられない、本当に受かるなんて――!」
目にみるみる涙が盛り上がっていく。喜びと驚きと安堵が、一度に溢れ出したような顔だった。
「……おめでとうございます、世璉殿」
志遠が目を細めて、その喜びようを見守った。
だが、それも束の間だった。
名はなおも読み上げられていく。上位へ、上位へ。朱慈煥の名――「朱文」の名は、まだ出ていなかった。
世璉がはっと我に返った。
「朱文殿の名が、まだ……」
中位ではなかった。ならば落ちたか。あるいは――もっと上か。
朱慈煥は黙って榜を見上げていた。
――出るなら中ほどで出てほしかった。
内心、そう思っていた。目立たず埋もれ、「受かった者の一人」として静かに終わりたかった。それが最も安全だった。
だが、名は出ない。読み上げはいよいよ上位に入っていく。十番。九番。八番。
「孔興浚!」
ざわ、と人だかりが揺れた。
曲阜の衍聖公家の一族。あの街道で行列を成していた、聖人の裔。その名が上位の一角に読み上げられ、人々が口々に「さすがは孔家」と囁き交わす。
そして――そのすぐ次だった。
「朱文!」
朱慈煥の偽りの名が、上から数えた方がずっと早い順位で、衍聖公家の若者の一つ下に読み上げられた。
どよめきが起こった。「済寧の無名の生員だ」「あの若さで」「孔家の若様のすぐ下だと」――周囲の目が一斉に朱慈煥へ集まってくる。
朱慈煥の背筋が冷えた。
――まずい。
顔には出さなかった。ただ静かに榜を見上げているだけ。だが、その内心は凍りついていた。
――まずい。非常にまずい。
目立たぬはずだった。埋もれるはずだった。それがよりによって上位、しかも衍聖公家の裔のすぐ下。誰の記憶にも残る、最もまずい位置だ。
人の口の端に上る。「朱文とは何者だ」と。無名の若造が、衍聖公家の裔のすぐ下に食い込んだ。誰もがそう思う。そしてそう思った者は、必ずこう続ける。――で、その朱文とは、どこの誰だ、と。
素性を、探られる。
詮索が始まれば、いずれ、あの届け出に行き着く。慈恩寺で育った、身寄りのない孤児。焼けて今はない、名もなき寺。調べようがないようそう仕立てた偽りの経歴。だが、詮索する者が増えれば、その薄氷にも、いつか罅が入る。
――どうして、こんなことに。
抑えたつもりだった。時務策も、ほどほどにしたはずだった。突出せぬよう匙加減をしたはずだった。それでもなお、この順位。前世の知識は、抑えても抑えきれずに滲み出てしまったのか。
喜びは微塵も湧かなかった。あるのは静かな、絶望にも似た焦りだけだった。挙人になった。身分の盾は、より固くなった。だがそれと引き換えに、自分は目立ってしまった。隠れる者にとって、これほど割の合わない話はない。
「朱文殿ぉっ!」
その絶望を破ったのは、世璉の声だった。
「やりました! 朱文殿も合格です! しかも、あんな上位! すごい、すごいです! 孔家の若様のすぐ下ですよ!」
世璉は無邪気に飛び跳ねながら、朱慈煥の腕を掴んで揺すった。その顔は我がことのように輝いている。
「……ああ」
朱慈煥は辛うじてそう応じた。
「……そうだな。ありがとう」
引きつりそうになる頬を、必死に抑えた。
喜ぶ世璉の手前、喜ばぬわけにはいかなかった。だが、その笑みは我ながらひどくこわばっていた。
合格した少年は無邪気に跳ねている。その隣で、上位に食い込んでしまった青年は、青ざめた顔を辛うじて笑みで覆っていた。
喜びと焦り。歓喜と絶望。同じ「合格」を前にした、あまりに対照的な二人の姿だった。
そして、そのすべての事情を知る志遠は――
二人の様子を交互に見比べながら、どうしていいか分からず、ただおろおろと視線をさまよわせていた。
喜ぶべき世璉と、頭を抱えたいはずの朱慈煥。そのあまりの温度差の間で、志遠は喜ぶことも案じることもできず、落ち着かなげに手を揉んでいた。
「せ、殿……朱文殿。その……おめでとう、ございます……?」
語尾が疑問形になった。
朱慈煥は、その心底困り果てた志遠の顔を、死んだ目で見返した。
喜ぶ世璉。困り果てる志遠。その間で、自分だけがこの合格の意味を正しく理解している。挙人という肩書きだけならまだしも、上位で孔子の一族より良い結果を取ったというという消えない爪痕。それを背負ってしまった者の目は、もはや、何の光も宿していなかった。
「……ああ。ありがとう、志遠」
声だけが、辛うじて、いつも通りだった。




