再び旅に向けて
永暦五年(一六五一年)九月 済南府 宿
済南からの帰り道も、放榜の後の宿でも、朱慈煥の足取りは重かった。
挙人になった。普通なら泣いて喜ぶところだが、その顔はとぼとぼと暗く沈んでいた。世璉が父への報せに沸き立って済寧へ先に発った後、宿の一室に残ったのはいつもの三人だった。
朱慈煥、陳永華、陳志遠。
「……参ったな」
朱慈煥は卓に肘をつき、深く息を吐いた。
「挙人だ。よりによって上位で。孔家の若様のすぐ下だぞ。……目立たないようにするはずが、これ以上ないほど目立っちゃった」
「災難でしたね」
陳永華が静かに言った。その声に、からかいの色はない。
「しかも挙人となれば、いつまでも恵生堂の奥に、住み込みの薬売りとしてというわけにもいきません。『老爺』と呼ばれる身が薬研を挽いていては、かえって人が訝しみます」
「分かっている」
朱慈煥は頭を抱えた。
「潘家に世話になりっぱなしってのも、さすがにもう限界だしな。挙人が郷紳の家に食客同然なんて、格好がつかないだろ。……独り立ちしなきゃいけない。それは分かる。分かるんだが……どこでどう身を立てるかって話だよ。目立ちたくないと思えば思うほど、この肩書きが邪魔をしてくる」
重い沈黙が、部屋に落ちた。
挙人という身分は、盾であると同時に枷でもあった。身を守る力を得た代わりに、否応なく人目を引く。そのうえ上位合格ときては、済寧に留まるほど「朱文とは何者か」という詮索の目に晒され続けることになる。
その沈黙を破ったのは、陳永華だった。
「朱兄。一つ、思い切った案があります」
「聞こう」
「済寧を離れましょう。それも――北西へ」
朱慈煥と陳志遠が、同時に顔を上げた。
「北西?」
陳志遠が眉をひそめた。
「陝西や甘粛の方か。あんな辺境へ、何をしに」
「まさに、辺境だからです」
陳永華は落ち着いて答えた。
「考えてもみてください。南はどうです。今なお戦の最中です。永暦帝は西南で清と争い、鄭氏は東南の海で戦っている。明の旗を慕う者が向かえば、否応なくその渦に巻き込まれる。……朱兄。あなたは旗頭にされることを、何より嫌ってこられた。南へ向かえば、その危険はいや増すばかりです」
朱慈煥は黙って頷いた。それは、その通りだった。
「では、北か東か。……いや、江南も直隷も、清の目が一番濃い土地です。上位の挙人がのこのこ現れれば、それこそ格好の噂の種でしょう。……となると」
陳永華は、卓の上を指で北西へとなぞった。
「灯下黒、と申します」
「灯下黒?」
陳志遠が首をかしげる。
「灯火のすぐ真下こそ、かえって暗い。人は遠くばかりを照らして、自らの足元を見落とすものです。清の勢威が及びきらぬ、忘れられたような西北の地こそ――探す目から最も遠い。誰が、明の皇族があんな辺境の砂と風の中に身を潜めていると、思うでしょうか」
朱慈煥は腕を組んだ。
理屈は分かる。分かるが――
「……危うくはないか?」
慎重に、朱慈煥は言った。
「西北は、清の支配が薄いって言えば聞こえはいいけどな。その分、治安だってあてにならん。モンゴルの諸部はいるわ、清に服さない連中もうろついてるわで……見知らぬ土地で後ろ盾もなく、下手をすりゃ、目立つ前に命を落としかねない」
拭いきれぬ心配が、その声に滲んでいた。
目立つのは困る。だが身の安全を捨ててまで辺境へ飛び込むのは、朱慈煥の慎重さが承服しなかった。
陳永華はしばし朱慈煥を見た。
そして静かに、こう言った。
「――北の地には、北の土地にしかない書物が眠っているそうです」
朱慈煥の眉が動いた。
「書物?」
「はい。戦乱と王朝の移り変わりの中で中原から失われ、辺境の寺や古い蔵に、ひっそりと流れ着いた書。誰にも読まれず、埃をかぶり、いずれ朽ちてこの世から消える書物が――西北の地には少なからず残っていると聞きます」
陳永華の声は静かだった。だがその言葉は、朱慈煥の最も柔らかいところを確かに突いていた。
「中には、もう中原では名すら伝わらぬものもあるやもしれません。……朱兄。あなたなら、その価値が分かるでしょう?」
朱慈煥は答えなかった。
だがその胸の内では、もう別の光景が広がり始めていた。
――失われる書物。
これまでの旅で、幾度その思いに触れたか。宋応星の、名だけを残して消える著作。潘家の書斎で繰った、後の世には伝わらぬ一冊。史料の彼方に沈んでいく無数の言葉たち。前世の研究者であった自分が、決して読むことの叶わなかった書が――もしその辺境の地に、まだ生きて残っているのだとしたら。
朽ちる前に。消える前に。この目で確かめられるのだとしたら。
――ずるいな、永華は。
朱慈煥は内心で苦笑した。
この男は分かっている。自分がどこに心を動かされるか。損得でも大義でもない。ただ、失われゆくものへの、この抗いがたい学者の業を。餌としては、あまりに上手すぎた。
――だが。
悪くない、とも思った。
目立ってしまった済寧を離れる理由はいる。南の戦火は避けたい。清の目の濃い土地も避けたい。ならば西北。灯火の真下の闇。そしてその果てに、もしかしたら――誰も読まぬまま朽ちていく書物が、待っている。
「……行けるだけ、行ってみるか」
やがて、朱慈煥はそう呟いた。
「どうせ挙人の遊学だ。名目は、いくらでも立つ。会試に備えて北の名師を訪ね、見聞を広める――そういうことにしておけば、誰も怪しみはすまい」
陳永華の目に、かすかな光が宿った。
「では」
「ああ。西北へ、向かおう」
陳志遠が、やれやれ、というように肩をすくめた。
「また旅ですか。……せっかく済寧の暮らしにも慣れてきたところでしたが」
「嫌か」
「いいえ」
志遠は静かに笑った。
「殿……朱兄のおられるところが、俺の行く先です。それだけのことで」
朱慈煥は、その言葉に小さく笑い返した。
こうして三人は、再び旅の支度に取りかかることになった。
済寧での四年の暮らし。恵生堂の薬の匂い。潘家の書斎。それらに一つずつ別れを告げて。
次に向かうのは、西北。
清の灯火の、その真下の暗がりへ。
そして――誰にも読まれぬまま朽ちるのを待つ、書物たちの待つ地へ。
窓の外では、済南の泉が、変わらずこんこんと湧き続けていた。




