西安へ
永暦五年(一六五一年)十月 山東省済寧州
旅立ちの朝は、よく晴れていた。
挙人となった「朱文」のもとには、この一月、思いがけぬほどの祝いが集まっていた。州の役所からの旗匾銀。地元の商家や、恵生堂の得意先からの祝儀。挙人が一人出れば、その名誉に、人はこぞって祝いを寄せる。
朱慈煥にとっては、むしろ居心地の悪いことだった。
鹿鳴宴という、新挙人を集めての祝賀の宴にも、体調を理由に顔を出さずに済ませた。上位で合格し、ただでさえ目立っている。これ以上、人の口に上るのは避けたかった。祝いの席に並んで酒を注がれ、名を覚えられ――そんなことは、まっぴらだった。
だが、集まった祝金は、これから始まる長い旅の、確かな路銀になる。皮肉なものだ、と朱慈煥は思った。目立つのを厭う、その身分ゆえの祝いが、目立たぬ土地へ逃れるための旅費になるのだから。
そして、潘家からの餞別は、格別だった。
「これを、持っていってくれ」
潘汝霖は、ずっしりとした包みを朱慈煥に握らせた。
「路銀の足しにな。……何を言うても、受け取ってもらう。世璉が挙人になれたのも、半分はお前さんのおかげだ。あれが初めての童試から、ずっと隣にいてくれた。その礼だと思うてな」
「潘様。これは、あまりに……」
「よい」
潘汝霖は、目を細めた。
その顔には、朱慈煥を、天津で妻を弔ってくれたあの日の恩人として、そして息子の道を照らしてくれた若者として、深く感謝する、一人の父親の情があった。
「達者でな、朱文殿。西の地は遠い。……どうか、無理をせぬように」
「……ありがとうございます」
朱慈煥は、深く頭を下げた。
この人は、最後まで何も知らない。目の前の若者が、明の皇族であることを。偽りの経歴の陰に、どれほどのものを隠しているかを。ただ、寺育ちの孤児と信じたまま、心から、その門出を祝ってくれている。
その善意に、朱慈煥は、いつものように静かに詫びた。
――いつか、この恩は、必ず。
果たせるかどうかも分からぬその誓いを、また一つ、胸の底に沈めた。
恵生堂の主人・趙は、朝から仏頂面だった。
無愛想に薬を包み、無愛想に荷造りを手伝い、そして旅立ちの間際になって、ぶっきらぼうに、小さな包みを突き出した。
「持っていけ」
「これは?」
「路銀だ。……あと、道中の薬もな。腹を下したときの、頭が痛むときの。お前は薬の目利きだが、自分の身体の心配は、いつも後回しだからな」
朱慈煥は、思わず笑った。
「趙さん。四年も、世話になりました」
「ふん」
趙は、そっぽを向いた。だが、その耳が、少し赤かった。
「……よく働いてくれた。お前ほど薬の分かる奉公人は、二度と来やせん。惜しいことだ。それだけだ」
不器用な、しかし確かな情のこもった言葉だった。朱慈煥は、その包みを大切に懐へ収めた。
そして、最も涙もろかったのは、潘世璉だった。
旅立つ三人を見送りに、世璉は城門の外までついてきた。挙人となった少年は、四年前よりずっと背が伸びていた。だが、その顔は今、くしゃくしゃに歪んでいた。
「朱文殿……本当に、行ってしまうのですか」
「ああ」
「僕は……僕は、朱文殿と、ずっと……」
言葉が続かなかった。
世璉にとって、朱慈煥は、初めての童試を共に潜り抜けた同志であり、九日間の郷試を隣で支えてくれた兄のような存在だった。天津で母を弔ってくれた、あの日の恩も忘れてはいない。その人が、遠い西の地へ去っていく。
「泣くな、世璉」
朱慈煥は、穏やかに言った。
「君は、もう挙人だ。立派な、一人前の男だよ。……天津で、母上の亡骸の前で途方に暮れていた、あの小さな子どもが。よく、ここまで来た」
「朱文殿ぉ……っ」
こらえきれず、世璉の目から、大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちた。
朱慈煥は、その頭にそっと手を置いた。四年前と、同じように。
「達者でな。父上を大切にするんだ。……いつか、また会えるよ。天下は広いようで、狭い。学問の道を歩いていれば、どこかできっと」
「……はい。……はい……っ」
世璉は、涙を拭いながら、何度も何度も頷いた。
その姿を、朱慈煥は目に焼き付けた。
別れは、いつもこうだった。この乱世で出会い、別れ、また別の地へ。だが、こうして涙で見送ってくれる者がいることは――名を偽り、素性を隠して生きる身には、何よりの宝だった。
城門を出て、三人は西への街道を歩き始めた。
済寧の町が、少しずつ背後に遠ざかっていく。四年を過ごした運河の町。恵生堂の薬の匂い。潘家の書斎。世璉との、机を並べた日々。それらが一つずつ、遠くなっていった。
朱慈煥は、一度だけ振り返った。
そして、前を向いた。
――さて。西安か。
胸の内に、暗い沈みはもうなかった。あの放榜の日の絶望は、いつしか別のものに変わり始めていた。
西安。古都・長安の地。幾多の王朝が都を置いた、千年の都。戦乱を経て、なお古い寺や道観の奥に、書物が眠っているという。中原ではとうに失われ、名すら忘れられた書が――もしかしたら、あの地には、まだ。
朱慈煥の足取りが、わずかに軽くなった。
誰も読まぬまま朽ちるのを待つ書物。前世の自分が、決して手にできなかった言葉たち。それが、この道の果てに待っているかもしれない。そう思うと、旅の労苦も、目立つことの憂鬱も、不思議と遠のいていった。
――生きて、為す。まずは、この目で確かめに行こう。
学者の血が、静かに騒いでいた。
その隣を、陳永華が黙って歩いていた。
朱兄の足取りが軽くなったのを、永華は横目で見て取っていた。書物の餌が、効いている。あの人は、失われゆくものを前にすると抗えない。それを見越して、北西行きを説いたのだ。狙い通りだった。
だが、永華の胸にあるのは、書物のことではなかった。
――西北。
永華は、まだ見ぬ西の地に思いを馳せていた。
あの地には、清の支配に、心から服してなどいない者たちが、大勢くすぶっている。
つい数年前、甘粛では、回教徒たちが、剃髪を強いる清に叛旗を翻し、河西の城々を一時は占拠した。乱は鎮められたが、その恨みは、まだ土の下で燻っている。かつて北京を落とした李自成の軍――大順の兵たちも、主を失って各地に散り、その残党が、西北の山間に、なお潜んでいるという。
そして西の彼方には清の強さの根がある。満洲の騎兵。あの、草原を疾駆する馬の力こそ、明の軍がついに敵わなかったものだった。南の永暦帝も、東の鄭氏も、歩兵ばかりで、あの騎馬の奔流の前に、幾度砕かれたか。
――ならば。
清の騎馬に対抗するには、こちらも騎馬の力が要る。
そして、西北の彼方には、清に服さぬ騎馬の民がいる。漠北のハルハ。西方のオイラト。清の圧迫に抗し、なお草原に自立する、馬の民。もし、その者たちと、細い糸なりとも縁を結べたなら。
いつか、朱兄を旗頭に立てて清と戦う、その日のために。
――今は、まだ種を蒔く時だ。
急ぐことはなかった。永華は、まだ十七。時は、いくらでもある。西へ向かうこの旅で、まずは西北の反清の人脈に、そっと触れておく。その先の、騎馬の民への糸は、気の遠くなるほど遠い。だが、糸は一本ずつ、手繰り寄せていくものだ。済寧で夜ごと、繁華街の網を広げてきたように。
――朱兄は、書物を求めて西へ向かう。
永華は、隣を歩く無防備な横顔を見た。
その人は、自分の隣にどんな思惑が静かに芽吹いているかを、知らない。知らないまま、失われた書物への純粋な想いだけを胸に、歩いている。
それで、よかった。
いつか、盤面が整ったとき。この人が「仕方ない」と、あの穏やかな苦笑を浮かべて、旗を取るしかなくなる、その日まで。自分は、地の下で糸を編み続ける。
「どうしたの、永華。何か考え事?」
ふいに、朱慈煥が問うた。
永華は、いつもの静かな微笑を浮かべた。
「いえ。西の地は、どんなところだろうと。……朱兄の言う書物が、本当にあるのか、楽しみで」
「永華も、存外、好奇心が強いね」
「朱兄ほどでは、ありませんよ」
嘘は言っていなかった。ただ、本当のことを、すべては言わなかっただけだ。
三人は、西へ、西へと歩いていった。
秋の風が、黄河へと注ぐ運河の水面を、静かに渡っていく。
済寧の四年が背後に遠ざかり――まだ見ぬ西北の地が、その果てで、静かに三人を待っていた。




