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明末の麒麟児  作者: sawami
第9章
113/116

商売と、賊と、施しと

永暦五年(一六五一年)十月 済寧〜河南への街道

 旅立ちの前に、支度があった。

 朱慈煥は、集まった祝金と餞別の一部を割いて、道中で売れそうな品を仕入れて回った。

「西へ行くほど、薬は高く売れるからね」

 恵生堂で四年、薬を見てきた目が、そう囁いていた。乱世で医者にかかれぬ者は、どこにでもいる。朱慈煥は、日持ちのする薬材を選んで仕入れた。傷や腹下しに効くもの、熱を冷ますもの、道中でも扱いやすい乾いた生薬を中心に。

 そしてもう一つ、書物である。

 済寧の書肆を巡り、朱慈煥は、値の付きそうな古書と写本の何冊かを、路銀で買い求めた。

「朱兄。書物まで、商いになさるので?」

 陳永華が、帳面を片手に問うた。すでに一行の勘定は、永華が握っている。仕入れの銭も売り上げも、すべてこの男の帳面を通る。

「書物はね、土地によって値がまるで変わるんだ」

 朱慈煥は、一冊の古い医書を、愛おしそうに手に取った。

「済寧では二束三文の書が、書の乏しい土地では宝になるかもしれない。逆もまたしかりさ。……それに、書を商えば、各地の書肆や旧家の蔵に、堂々と出入りできるだろう。売り買いのついでに探せる。西北に眠ってるかもしれない書物の手がかりも」

 永華は、なるほど、という顔をした。

 薬と、書。朱慈煥は、その両方を担いで西へ向かう。片や、乱世で人を生かす実利の品。片や、失われゆく言葉を求める学者の業。二つながら、この男らしい商いだった。

 そして勘定は、永華が握る。仕入れの元手、売値の見極め、路銀の配分。すべてを永華が帳面で差配する。この男の算盤があれば、道中、銭に困ることはあるまい。朱慈煥は、そう見込んでいた。

 済寧の西門の外で、志遠が待っていた。

 その傍らに、見慣れぬ顔が四人。

「朱兄。話していた、俺の仲間です」

 志遠が、男たちを紹介した。

 いずれも、志遠と同じ用心棒稼業の者たちだった。日に焼けた頑健な体つき。腰には、使い込まれた刀。一人は槍を負い、一人は弓を担いでいる。荒事で飯を食ってきた者の、油断のない目をしていた。

「朱の旦那、と。志遠から聞いてまさあ」

 髭面の、頭格らしい男が、気安く言った。

「学のある、薬と書物に詳しいお人だと。……こちとら難しいことは分からねえが、腕っぷしなら任せてくだせえ。西まで、無事にお届けしまさあ」

「頼りにしてるよ。よろしく頼むね」

 朱慈煥は、穏やかに笑って応じた。

 男たちは、朱文を「学のある薬好きの旦那」としか思っていない。挙人であることは知っていても、その正体が明の皇族であることなど、知る由もない。それでいい。全てを知るのは志遠ただ一人。この男たちには、気楽な護衛稼ぎのままでいてもらう方が、互いのためだった。

 こうして、一行は西へ向けて発った。

 挙人「朱文」と、その連れ。薬と書を商いながら西へ遊学する一行――表向きは、そういう姿だった。

 道中の商いは、思いのほか順調だった。

 村に着けば、朱慈煥は薬を広げた。荒れた土地には、病を得ても医者にかかれぬ者が多い。腹を下した子ども、傷の膿んだ農夫、熱にうかされた老人。朱慈煥は、症を見て薬を按配し、時に施し、時にわずかな銭を取った。

「ありがてえ、ありがてえ……」

 薬礼に、卵や干した野菜を差し出す者もいた。銭のない村では、それで十分だった。朱慈煥の評判は、行く先々で静かに広まっていった。

 町に着けば、書を商った。

 書肆を訪ね、旧家の蔵を覗き、持参した古書を売り、また新たな書を仕入れる。永華が、その一冊一冊の値を、目にも留まらぬ速さで見積もり、帳面につけていく。売り買いの差配は、見事なものだった。

「朱兄。この写本、ここでは高く売れます。ですが、洛陽まで持てば倍にはなるかと」

「なら持っていこう。……この一冊は、どう見る?」

「それは、お売りにならぬ方が。……朱兄が、手放したくない顔をしておられますよ」

 永華が、澄ました顔で言った。朱慈煥は苦笑した。図星だった。

「かなわないな、君には」

 志遠と用心棒仲間は、その間、一行の護りを固めつつ、時に他の隊商の護衛も請け負って稼いだ。荒れた道中では、武装した護衛の需要は絶えなかった。

 薬で、書で、そして刀で。それぞれが旅の糧を得ながら、一行は西へ西へと進んでいった。

 だが、中原の道は、平穏ばかりではなかった。

 曹州を過ぎ、河南へ入ろうという街道の一角だった。

 昼だというのに、その道は妙に人けがなかった。両側に、枯れた葦の茂る寂しい一本道。志遠の仲間の、弓を担いだ男が、ふと足を止めた。

「……旦那方。妙ですぜ」

 男の目が、鋭く前方の葦を睨んだ。

「鳥がいねえ。この葦の茂みに、鳥の一羽も飛び立たねえ。……誰かが、潜んでる」

 その言葉が終わらぬうちだった。

「――出やがった!」

 葦の茂みから、数人の男が喊声を上げて躍り出た。

 賊だった。ぼろを纏い、痩せこけ、しかしその手には、確かな武器――刀や槍を握っている。飢えた目が、一行の荷をぎらついて睨んでいた。

「荷を、置いていけ!」

 賊の頭らしい男が、しわがれた声で叫んだ。

「悪いようにはせん! 薬と銭を寄越せば、命までは取らん!」

 用心棒仲間が、さっと刀を抜き、朱慈煥と荷を庇って前へ出た。だが、賊の数は、こちらよりやや多い。六、七人はいる。

「志遠」

 朱慈煥が、低く言った。

 その手は、すでに腰の二本の刀――子母刀にかかっていた。

「殺さないで。追い返すだけでいい」

「心得ました」

 志遠が、刀を抜いた。

 次の瞬間、志遠が地を蹴った。

 賊の一人が、槍を突き出す。志遠は、それを刀の腹で軽くいなした。無駄のない、澄んだ動きだった。返す刀の峰で、賊の手首をしたたかに打つ。賊は悲鳴を上げて、槍を取り落とした。

 用心棒仲間も、負けてはいない。髭面の頭格が、大刀を振るって賊二人を一度に押し返す。弓の男が、賊の足元へ威嚇の矢を射込む。荒事に慣れた者たちの、確かな腕だった。

 そして、朱慈煥である。

 賊の一人が、朱慈煥の荷――薬の包みを狙って、横から突っ込んできた。

「――!」

 朱慈煥は、慌てなかった。

 抜いた二本の子母刀。長い方で相手の刀を受け、短い方で、その懐へ滑り込む。刃は返してある。峰で、賊の鳩尾を突いた。

「ぐ……っ」

 賊が、息を詰めて崩れ落ちる。殺してはいない。ただ、戦う気力を奪っただけだ。

「――君たち」

 朱慈煥は、崩れた賊を見下ろし、静かに言った。

 その声には、不思議な重みがあった。

「その痩せ方。その武器の持ち方。……ただの野盗じゃないね。もとは、兵か。大順の、それとも榆園の生き残りかな」

 賊の頭が、びくりと身を強張らせた。

 図星だった。

 この者たちは、ただの盗賊ではない。かつて旗を掲げて戦った軍の、なれの果て。主を失い、行き場を失い、飢えて、街道の賊に身を落とした敗残の兵たちだった。

「……だから、どうした」

 賊の頭が、絞り出すように言った。

「もとが何であれ、今は賊よ。飢えて、盗むしかねえんだ。……食わねば、死ぬ。それだけだ」

 朱慈煥は、しばし、その男を見た。

 周りでは、志遠たちが、他の賊をあらかた制圧し終えていた。峰打ちで打ち据えられ、あるいは武器を叩き落とされ、賊たちは地に伏し、あるいはへたり込んでいる。誰も、殺されてはいない。

 朱慈煥は、刀を収めた。

 そして、荷の中から薬の包みと、わずかな干し飯を取り出すと、賊の頭の前に置いた。

「……これは」

「餞別だよ」

 朱慈煥は、静かに言った。

「薬と、食い物だ。持っていきな。……でも、これきりにしろよ。次にまた街道で刀を抜けば、今度は峰じゃ済まさない相手に、当たるかもしれない」

 賊の頭は、呆然と、その包みと朱慈煥を見比べた。

「……なぜ、だ。なぜ、賊に施しなど」

「もとは、旗を掲げた兵なんだろう」

 朱慈煥は、背を向けながら言った。

「その旗が、何を守るためのものだったか。……忘れてないなら、その薬で生き延びろ。生きて、いつか、別の生き方を探せばいい」

 賊たちは、動かなかった。

 ただ、去っていく一行の背を、呆然と見送っていた。

 街道に、再び静けさが戻った。

「朱兄」

 しばらく歩いてから、陳永華が静かに口を開いた。

 その声には、いつもの澄ました響きの奥に、かすかな熱があった。

「……お優しいことで」

「甘い、と言いたいのかな」

「いえ」

 永華は、首を振った。

 ――生きて、いつか、別の生き方を探せ。

 朱兄が賊に投げたその言葉は、そのまま、あの人自身の生き方だった。死んだ忠義より、生きて為す。旗を失った者に、なお生きよと説く。

 ――そして。

 永華の胸に、別の思いがよぎっていた。

 あの賊たちは、大順か榆園の残党。西へ行くほど、こうした敗残の兵は増えるだろう。飢えて、散り、行き場を失った、反清のなれの果て。

 ――使える。

 冷徹に、永華は思った。あの者たちは、今はただの飢えた賊だ。だが、旗を、糧を、そして生きる道を示す者が現れれば、再び刀を執る。かつて清と戦った、その手で。

 朱兄は、施しのつもりで薬を与えた。だが永華の目には、それは種蒔きに見えた。西北に散る反清の残り火へ、そっと一つ、火種を分けるような。

 ――朱兄は、気づいていない。

 永華は、隣を歩く穏やかな横顔を見た。

 その人は、ただ、目の前の一人を生かしたかっただけだ。深い企みなど、ありはしない。

 それでいい。企むのは、自分の役目だ。

「どうしたの、永華。また考え事?」

 朱慈煥が問うた。

「いえ。……朱兄は、商いより施しの方が多くありませんか。これでは、勘定方が泣きますよ」

「それは手厳しいな」

 朱慈煥が笑った。

 用心棒仲間が、その気安いやり取りに、つられて笑う。西へ続く街道を、一行の笑い声が、のどかに流れていった。

 その笑いの底に、どんな思惑が沈んでいるかを――知る者は、まだ一人だけだった。

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