索敵
永暦元年(一六四七年)二月 山東省済寧州 西郊
策は決まった。だがその前にどうしても知らねばならないことがあった。
敵が、どこにいるのか。
「策を回すにはまずあの一隊の居場所と、進む向きを掴まなければならない」
朱慈煥は、恵生堂の裏間で、二人に言った。
「いつ、どの道を通って済寧へ近づくのか。それが分からなければ、偽の報せを、どこで流せばいいかも決められない。噂は、賊の進む道筋に落としてこそ、耳に届く。見当違いの場所で撒いても、無駄になるからね」
「ですが、朱兄」
陳永華が、慎重に問うた。
「敵を探すといっても……こちらから賊の群れに近づくのは、危うすぎませんか」
「近づく必要はないんだ」
朱慈煥は、首を振った。
「賊そのものを、この目で見に行くわけじゃない。見るのは――賊が通った後の景色だ」
「後の景色?」
「数百の人間が動けば、必ず、跡が残る」
朱慈煥は、卓に指で地図を描いた。
「食い荒らされた畑。踏み荒らされた道。逃げてくる、流民の群れ。彼らがどの方角から来て、何を語るか。それを辿れば、賊の居場所は、逆から炙り出せる。煙を見れば、火元が分かるのと同じだ」
「流民の流れを、遡る……」
「そうだ。俺たちは、西へ向かって、逃げてくる者たちと、逆に進む。彼らの背にした方角に、賊がいる」
翌朝早く、三人は済寧の西門を出た。
生員となった朱慈煥の身分が、ここで役に立った。「薬草を採りに、郊外へ出る」という名目に、門の兵は、さして疑いも挟まなかった。読書人の外出は、それだけで通りがよかった。
西へ向かう道はいつもと様子が違っていた。
道を行き交うのは東へ、東へと急ぐ人の群れだった。荷を背負った農夫、子を抱えた女、家財を積んだ荷車。誰もが、後ろを気にしながら、足を速めている。その顔には、一様に、怯えが貼りついていた。
「……逃げてくる者が、増えていますね」
陳志遠が、低く言った。
「昨日、町で聞いたときよりずっと多い。それに皆、西から来ています」
朱慈煥は道の脇に立ち、その流れをじっと観察した。
流民の数、荷の様子、足取り。一つ一つが西で起きていることを語っていた。
朱慈煥は、逃げてくる一人の老人にそっと声をかけた。
「ご老人。西で、何が」
老人は、足を止め、息を切らしながら答えた。
「賊だ……賊が来る。わしの村は、二日前に、焼かれたんじゃ……蔵という蔵が、破られて、逆らった者は……」
老人の声が、震えて、途切れた。
「どのあたりの、村ですか」
「巨野の……東の、外れだ。賊は、そこから、こっちへ……運河の方へ、向かってきおった」
朱慈煥は、静かに礼を言い、老人を見送った。
それから幾人にも同じように尋ねた。西から来る者たちの言葉を丹念に拾い繋ぎ合わせていった。焼かれた村の名。賊を見た場所。その日付。方角。
やがて、断片が、一つの形を結んでいった。
「……見えてきた」
朱慈煥は、道の脇にしゃがみ、地面に、枝で地図を描いた。
「賊の一隊は、巨野の東を荒らして、今は、この嘉祥のあたりまで来ている。進む向きは、間違いなく、東――運河沿いの、済寧の方角だ」
「朱兄。一つ、よろしいですか」
それまで逃げてくる流民を一人ひとりじっと観察していた陳永華が、口を開いた。
「賊の位置は、確かに、その通りだと思います。ですが――進む速さについては、もう少し、細かく読めるかもしれません」
「ほう」
朱慈煥が、永華を見た。
「聞かせてくれ」
永華は、地面に描かれた地図の傍らに膝をつき、指さした。
「先ほどから、逃げてくる者たちの、荷を見ていました。二日前に村を焼かれたという、あの老人の荷は、乱れていました。着の身着のまま、握り飯すら持たずに逃げている。……つまり、賊は、その村を、不意打ちで襲った。前触れもなく、いきなりです」
「ふむ」
「ところが」
永華は、別の方角を指した。
「今朝がた、嘉祥の方から来た、あの一団を、ご覧ください。彼らは、荷を、きちんとまとめています。鍋も、夜着も、種籾までも背負っている。逃げる支度をする時間があった、ということです」
朱慈煥の目が、細くなった。
「……賊の噂が、先に村へ届いていた」
「はい」
永華は、頷いた。
「同じ賊に追われていながら、片や不意を打たれ、片や支度をして逃げている。この差は何を意味するか。――賊は、進むにつれて、動きが遅くなっているのです。最初は、電光石火で村を襲えた。だが今は、噂が先回りして、獲物に逃げ支度をさせてしまっている。それだけ、彼らの略奪は、手間取り始めている」
「つまり――」
朱慈煥が、後を引き取った。
「進むほど実入りが悪くなり足も鈍る。俺の読みでは、済寧まで五日から七日。だが、この鈍り方なら――」
「おそらく、七日に近い」
永華は、静かに言い切った。
「そして、もう一つ。賊の足が鈍り、実入りが減っているということは……彼らは今、焦り飢えています。次こそは大きな獲物を、と。――だからこそ、朱兄の『別の実入りのいい獲物がある』という偽の報せはよく効くはずです。飢えて焦った者ほど、うまい話に、飛びつきますから」
朱慈煥はしばし、永華を見つめた。
それから感嘆したように、息を吐いた。
「……恐れ入った」
心からの言葉だった。
「俺は、流民の言葉から、賊の『位置』を割り出した。だが、お前は、同じ流民の『荷』から、賊の『焦り』まで読み取った。位置は、地図の上の話だ。だが焦りは、賊の心の話だ。……人の心の動きまで読めれば、策は、二段深くなる」
永華は、少し照れたように、目を伏せた。
「父から、叩き込まれたのです。書を読むように、人を読め、と。……もっとも、当時は、その意味が、分かりませんでしたが」
「陳鼎先生の教えが、こんなところで、活きたわけだ」
朱慈煥は、微笑んだ。それから、地図に向き直り、その目に、鋭い光を宿した。
「読みが、深まった。賊は、七日近くかけて、焦りながら、済寧へ来る。飢えて、うまい話に飛びつきやすくなっている。……なら、こちらの筋書きは、より効く。永華、お前のおかげで、勝ち筋が、太くなった」
「お役に立てたなら」
永華は、そう言いながらもその目には隠しきれぬ手応えが宿っていた。
かつて、書物の中の仁義に絶望し、机上の学問に何の意味があるのかと問うた少年。その少年が今、旅で培った目で、生きた戦の盤面を、読み解いている。学んだものが、初めて、現実の人を救う力に変わろうとしていた。
朱慈煥は、その横顔を、頼もしく見た。
――やはり、この男は、いずれ、大きくなる。
その時だった。
「朱兄」
陳志遠が押し殺した声で西の方角を指した。
遠く地平の彼方に幾筋もの黒い煙が、細く立ち上っていた。
一つ、二つ、三つ――。
冬の乾いた青空の下に、その黒い煙は不吉なほどくっきりと見えた。
「あれは……」
永華が、息を呑んだ。
「焼かれた村だ」
朱慈煥の声が、低くなった。
「昨日今日の、ものだろう。まだ、煙が新しい。……あの煙の下に、賊がいる」
三人は、しばらく、その煙を見つめていた。
まだ遠い。だが、確実に近づいている。あの煙の連なりが、一日ごとに、済寧へと迫ってくる。
数百の飢えた牙。義の旗を掲げた、略奪の群れ。
その姿は、まだ見えない。だが、その通り道と進む向き、そして足取りの鈍りまで、もう掴んだ。
「……見つけた」
朱慈煥は、静かに言った。
その目は、遠い煙を見据えながら、すでに、次の一手を、組み立て始めていた。
「敵の流れは、掴んだ。あとは、この流れを、どこへ、どう変えてやるかだ」
冬の風が西から吹いてきた。
焦げた匂いがかすかに混じっている気がした。
三人は踵を返し、済寧へと足を速めた。
刻限は長くて七日。
その間にすべての手を打たねばならなかった。




