調虎離山
永暦元年(一六四七年)二月 山東省済寧州 恵生堂
潘家の避難が決まった夜、三人は再び、恵生堂の裏間に集まった。
「潘様の説得、上手くいったよ」
朱慈煥は、少しほっとした顔で、二人に告げた。
「三日のうちに、一族と使用人を、東の親戚筋へ逃がすことになった。荷は最小限。米と銀の大半は、置いていくしかないけれどね」
「それで、いいのですか?」
陳志遠が問うた。
「屋敷と蔵は、結局、賊のなすがままになるのでは」
「そこだ」
朱慈煥は、灯火を挟んで、二人を見た。
「今夜は、その話をしたい。潘家の人を逃がすのは、あくまで、守りの手だ。だが、それだけでは足りない。あの一隊が済寧の郊外を荒らせば、潘家の屋敷が焼かれるだけでは済まない。近隣の村も、逃げ遅れた者も、巻き込まれる。……だから、考えたいんだ。そもそも、あの一隊に、済寧を素通りさせる手はないか」
「素通り、ですか」
陳永華が、身を乗り出した。
「撃退するのではなく?」
「撃退はさすがに無理だよ」
朱慈煥は、あっさりと言った。
「向こうは腐っても数百の武装した集団。こちらは三人。清の守備兵は城に籠るだけで、郊外までは守らない。正面から戦う道は、最初からない。……だが、思い出してほしいんだ。あの一隊が、何のために動いているかを」
「もちろん略奪です」
「そう。彼らは、義のために済寧へ来るんじゃない。食い扶持と財のために来る。つまり――商人と同じで、損得で動く。ならば、彼らの帳面を、こちらで書き換えてやればいい」
永華の目が、光った。
「済寧を襲っても、割に合わない、と思わせる」
「その通りだ」
朱慈煥は、卓の上に指で図を描き始めた。
「考えたのは、三つの手を、重ねることだ。一つでも欠ければ心もとない。だが、三つ重なれば、彼らの足は、まず止まる」
「一つ目は」
「実入りを消すことだ」
朱慈煥は、指を一本立てた。
「潘家の屋敷を――『すでに終わった家』に見せかける。門は破れたままにし、蔵の戸は開け放ち、中の米は運び出すか、隠す。庭には家財の残骸を撒いておく。つまり、『別の賊が先に襲った後』の姿を、作っておくんだ。略奪目当ての一隊は、荒らされた後の家には、用がない」
志遠が、唸った。
「もぬけの村……あれと、同じ光景を、わざと作るのですか」
「そうだ。俺たちは、あの光景を、嫌というほど見てきた。何が略奪された家に見えるか――皮肉なことに、誰よりよく知っている」
「二つ目は」
永華が、先を促した。
「病だ」
朱慈煥は、二本目の指を立てた。
「屋敷の門と、村の入り口に、疫病の印を残す。石灰を撒き、艾を焚いた跡を作り、『疫病につき近寄るべからず』の札を立てる。戸口に、病人がいた痕跡を仕込んでもいい。……賊が最も恐れるのは、清の兵じゃない。疫病だ。目に見えず、刀でも防げず、一人罹れば徒党ごと倒れる。略奪に入った村で疫病を拾うことほど、割に合わない話はない」
「薬種商の知恵、ですね」
永華が、口の端を上げた。
「本草の知識が、こんなところで役に立つとはな。……そして、三つ目」
朱慈煥は、三本目の指を立てた。そして、少しだけ、声を落とした。
「偽報せだ。これが、一番の勝負手になる。あの一隊は、本隊から離れて流れている。つまり、彼ら自身も確かな報せに飢えている。どこに富があり、どこに官兵がいるか――噂を頼りに動いている。ならば、その噂に、こちらの筋書きを混ぜてやる」
朱慈煥の指が、卓の上の見えない地図をなぞった。
「流す報せは、二つ。一つは、『済寧には清の援兵が入り、郊外まで巡回を始めた』。もう一つは、『別の土地に守りの薄い実入りのいい獲物がある』。……前で塞ぎ、横に逃がす。水の流れを変えるのと、同じ理屈だ」
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて、永華が、静かに言った。
「……治水、ですね」
朱慈煥が、永華を見た。
「力で堰き止めるのではなく、流れの行き先を、変えてやる。潘家の書斎で見た『河防一覧』の――束水攻沙。潘季馴公の治水と、同じ考え方です」
朱慈煥は、思わず、小さく笑った。
「言われてみれば、そうだな。賊も、水も、無理に止めれば堤を破る。だが、流れやすい道を示してやれば、そちらへ流れる。……治水の名族を守る策が、治水の理屈とは。潘公も、草葉の陰で笑っておられるかもしれない」
張り詰めていた部屋の空気が、わずかに緩んだ。
「ですが、朱兄」
志遠が、現実的な問いを挟んだ。
「偽の報せは、誰が、どうやって流すのです。賊の耳に届けるなど、危うすぎる」
「直に届ける必要はない」
朱慈煥は、首を振った。
「噂というのは、道を歩くものだ。西へ向かう流民、行商人、逃げてきた者たち――あの一隊の進む道筋には、人の流れがある。その流れの中に、報せを落とせばいい。恵生堂には、西から来た客が、毎日出入りしている。薬を売りながら、世間話として、こぼしておく。『済寧には援兵が入ったらしい』『あちらの渡し場の先は、まだ手つかずらしい』……噂は、俺たちの足より速く、賊の耳に届く」
「なるほど……」
「ただし」
朱慈煥は、そこで表情を引き締めた。
「この策には、越えてはならない一線がある」
二人が、朱慈煥を見た。
「『別の獲物がある』と流す偽の報せ――その行き先に、本物の村や家を、指してはならない。俺たちの都合で、賊の牙を、余所の誰かに向けるだけなら、それはただ、災いを他人に押しつけただけだ。……指し示す先は、人のいない場所にする。廃村、涸れた渡し場、とうに逃げ散った集落。この近辺の地理は、志遠、お前の調べが要る」
志遠が、深く頷いた。
「必ず、調べ上げます」
「永華は、潘家の屋敷の細工を頼みたい。何をどう散らかせば『終わった家』に見えるか、帳面ごと、段取りを組んでくれ。俺は、疫病の仕込みと、噂の種を撒く」
「承知しました」
「三日だ」
朱慈煥は、灯火を見つめた。
「潘家が発つまでに三日。賊が郊外に現れるまで、おそらく、七日とない。……その間に、実入りを消し、病で遠ざけ、流れを逸らす。三つの手が噛み合えば、あの一隊は、済寧を素通りする」
「もし、噛み合わなければ」
永華が、静かに問うた。
朱慈煥は、少しの間、黙った。それから、正直に答えた。
「そのときは、逃げる。潘家はすでに逃がしてある。俺たちも、命まで賭ける策じゃない。……勝ち筋は作る。だが、負けても死なない形にしておく。それが、俺たちのやり方だろう」
永華が、ふっと息を吐いた。
「……ええ。それでこそ、朱兄です」
灯火が、揺れた。
三人の前には、それぞれの持ち場が、はっきりと見えていた。
刀ではなく、知恵で。堤ではなく、流れで。
済寧を守る、静かな戦が、始まろうとしていた。




