巡る情け
永暦元年(一六四七年)二月 山東省済寧州 潘家
朱慈煥が潘家を訪ねたのは、その翌日の昼過ぎだった。
供は、陳永華だけを連れた。陳志遠には、引き続き町の様子を探らせている。
通された一室で、当主・潘汝霖は、朱慈煥を迎えた。だが、その顔には、先日までの人の好い笑みはなかった。西からの噂は、すでに当主の心に、重くのしかかっているようだった。
「朱文殿。よう来てくれた。何用でこられたのだ?」
「はい、折り入ってお願いしたいことがあります」
朱慈煥は、単刀直入に切り出した。
「潘様。済寧の郊外まで、賊の一隊が迫っております。城は、あるいは持ちこたえるやもしれません。ですが、城壁の外にある潘家のお屋敷は――危のうございます。ひとまず、ご一族で、この地を離れられるべきかと存じます」
潘汝霖の顔が、こわばった。
「……逃げよ、と申すか」
「はい」
「朱文殿。それは、できぬ相談だ」
当主は、静かに、しかしはっきりと、首を振った。
「この潘家は、代々、この済寧に根を張ってきた家だ。田があり、蔵があり、先祖の墓がある。わしの祖は、河を治め、民を生かすことに生涯を捧げた。その血を引く家を、わしの代で、賊が来るからと放り出して逃げる。……そのようなこと、ご先祖様に、顔向けができぬ」
朱慈煥は、黙って聞いていた。
潘汝霖の言葉には、郷紳としての、揺るぎない矜持があった。頭ごなしに「逃げろ」と言っても、この人は動くまい。
――鄭芝龍の時と、同じだ。
朱慈煥は、内心で思った。かつて泉州で、海賊あがりの梟雄・鄭芝龍と対峙したときのことが、脳裏をよぎった。あの男もまた、頭ごなしの理屈では、決して動かなかった。人を動かすには、その人自身の、損得と、矜持に、語りかけねばならない。
「潘様」
朱慈煥は、静かに口を開いた。
「一つ、伺わせてください。潘家がこの済寧で守ってこられたものは――土地でございますか。それとも、蔵の米でございますか」
「……どういう意味だ」
「潘家が、真に守るべきものは、田でも、蔵でも、屋敷でもございますまい。それらは、失っても、また築き直せる。潘家が代々受け継いでこられたのは――その血と、名にございましょう」
朱慈煥の声は、穏やかだったが、芯があった。
「治水の名族。民を生かした一族。その誇りは、土地に宿るのではございません。それを受け継ぐ、人に宿るのです。ご先祖様が守ろうとされたのは、田畑そのものではなく、その田を耕す、民の暮らし。そして、その志を継ぐ、子孫の命ではございませんか」
潘汝霖の眉が、動いた。
「賊が来れば、田は焼かれ、蔵は奪われましょう。それは、確かに惜しい。ですが、田は、また拓けます。蔵は、また建ちます。米は、また実ります。――されど、人の命は、一度失えば、二度と戻りませぬ」
朱慈煥は、まっすぐに当主を見た。
「潘様がここで、屋敷を守らんと留まり、万一のことあれば――潘家の血は、名は、その志は、そこで、絶えます。ご先祖様が、命がけで守り継いでこられたものが、屋敷一つのために、潰えるのです。それこそ、ご先祖様に、顔向けができぬことではございませんか」
部屋に、沈黙が落ちた。
潘汝霖は、うつむき、拳を握りしめていた。矜持と、道理の間で、激しく揺れているのが、見て取れた。
「……だが」
当主は、絞り出すように言った。
「逃げた先とて、安全とは限らぬ。運河沿いは、どこも同じように危うい。逃げる途中で、賊に遭えば――」
「そのための、我々でございます」
朱慈煥は、静かに言った。
「逃げ道は、我々が調べます。賊の動きも、我々が探ります。安全な刻限に、安全な道を選んで、お逃がしいたします。ただ闇雲に逃げよと申しているのではございません。策は、こちらで、練っております」
その時だった。
「父上」
それまで、部屋の隅で黙って聞いていた、潘世璉が、口を開いた。
少年は、緊張した面持ちで、しかし、はっきりとした声で言った。
「僕は……朱文殿を、信じます」
潘汝霖が、息子を見た。
「世璉」
「父上。僕は、覚えています。母上が、亡くなったときのことを」
世璉の声が、わずかに震えた。
「あのとき、僕と父上は、行くあてもなく、天津を彷徨っていました。母上の亡骸を前に、僕は、どうしていいか分からなかった。……そんなとき、通りすがりの、一人の若い御坊様が、足を止めてくださった。名も知れぬ、貧しい身なりの修行僧が。母上のために、経を唱えてくださったのです」
朱慈煥は、静かに目を伏せた。
天津の、あの日のことだった。修行僧「王叔三」を装っていた、あの頃。行き倒れかけた親子の傍らで、亡き母のために経を唱えた――その相手が、目の前の少年と、その父・潘汝霖だった。
「僕は、あの御坊様の顔を、忘れたことがありません」
世璉は、まっすぐに朱慈煥を見た。
「そして、済寧で、朱文殿と再会したとき……すぐに、分かりました。あのときの、御坊様だと。朱文殿は、還俗されたと仰った。それ以上は、何も聞きませんでした。でも、僕は、知っています。この方は、見ず知らずの親子のために、足を止めてくださる方だと。……そのお方が、今度は、潘家のために、こうして知恵を絞ってくださっている」
少年は、父に向き直った。
「父上。朱文殿は、恩を売るために来たのではありません。ただ、僕たちを、助けようとしてくださっているのです。……どうか、聞いて差し上げてください」
潘汝霖は、長いこと、黙っていた。
息子の言葉が、そして朱慈煥の道理が、当主の頑なな心を、少しずつ、解きほぐしていった。
かつて、天津で妻を失い、幼い息子の手を引いて、あてもなく彷徨ったあの日々。そのどん底で、名も知れぬ修行僧が差し伸べてくれた、あの情け。潘汝霖もまた、それを、忘れてはいなかった。
やがて、当主は、深く、長い息を吐いた。
「……分かった」
その声には、諦めと、しかし覚悟が滲んでいた。
「朱文殿。世璉が、これほど言うのだ。そして、お前さんの道理も、正しい。……田も、蔵も、また築ける。だが、この子の命は、この子だけのものだ。世璉と、一族の者を、失うわけにはいかぬ」
潘汝霖は、顔を上げた。その目には、郷紳としての矜持と、家長としての、確かな決断があった。
「逃げよう。潘家は、この地を、一時、離れる。……朱文殿。すまぬが、力を貸してくれ」
「必ずや」
朱慈煥は、深く頭を下げた。
「潘家の皆様を、御身一つ残らず、安全な地へお逃がしいたします」
世璉が、ほっとしたように、肩の力を抜いた。
朱慈煥は、その少年に、そっと微笑みかけた。
――あの日、天津で唱えた経が、こんな形で、巡り巡って返ってくるとはな。
人の縁とは、不思議なものだった。名も告げずに施した情けが、時を経て、恩人を救う糸となる。朱慈煥は、そんな巡り合わせに、静かな感慨を覚えていた。
だが、感傷に浸っている暇はなかった。
決断は、下された。ここからは、時との戦いだ。榆園軍の一隊が、いつ済寧に牙を剥くか、分からない。それまでに、潘家を、安全に逃がしきらねばならない。
「では、潘様。さっそく、支度に取りかかりましょう」
朱慈煥の目に、盤面を見据える光が、戻っていた。




