脅かされる人々
永暦元年(一六四七年)二月 山東省済寧州
合格の喜びは、長くは続かなかった。
それは、発表から数日後のことだった。
恵生堂に、西からの風に乗るようにして、不穏な噂が流れ込んできた。最初は、薬を買いに来た商人の、声を潜めた一言だった。
「西の方が、きな臭いらしい」
朱慈煥は、薬を量る手を止めなかった。だが、耳だけは、その声に向けていた。
噂は、日を追うごとに、生々しさを増していった。
郓城が襲われた。巨野が荒らされた。城が破られ、府庫が劫掠され、郷紳が――殺された。
榆園軍。
曹州の楡の林に潜む、抗清の義軍。明の宗室を奉じ、天正の元号を掲げる、号して百万の農民軍。その軍が、根拠地を出て、東へ――済寧の方角へ、進み始めているという。
「……済寧にも、来るかもしれない」
夜、恵生堂の裏間で、朱慈煥は二人に告げた。
陳志遠の顔が、引き締まった。
「義軍が、ですか。明の旗を掲げる軍が、なぜ済寧を襲うのです」
「明の旗を掲げているからといって、義軍とは限らないんだ」
朱慈煥は、静かに言った。
「邳州で会った、偽の義軍を覚えているだろう。あれは、義の名を騙る、ただの野盗だった。でも――今度のは、本物だ。本物の榆園軍だ。それでも、やることは、そう変わらないかもしれない」
「変わらない、とは」
「彼らは、城を破り、府庫を奪い、人々を殺している」
朱慈煥の声に、苦いものが混じった。
「榆園軍は、明への忠義を掲げている。清と戦う、義の軍だ。それ自体は、嘘ではないと思う。でも、その軍を支えているのは、飢えた農民たちだ。食うや食わずの民が、武器を取って立ち上がった。そういう軍が、城を落とせば、何をすると思う」
陳永華が、静かに後を引き取った。
「……富める者から、奪う」
「そうだね」
朱慈煥は、頷いた。
「郷紳は、その筆頭だ。土地を持ち、蔵に米を蓄え、清の治世の下で、それなりに暮らしている。義軍の目には、彼らは『清に飼われた、富める者』に映るんだ。明への忠義を掲げる軍が、明を慕う郷紳を、襲い、奪い、殺す。――それが、乱世というものだよ」
部屋に、重い沈黙が落ちた。
朱慈煥の脳裏には、一つの顔が浮かんでいた。
潘汝霖。
済寧の郷紳。治水の名族の末裔。再会した自分たちを温かく迎え、童子科の保証人にまでなってくれた、あの人の好い当主。
潘家は、まさに榆園軍が標的とする「郷紳」そのものだった。
「潘様の家は、危ういな」
朱慈煥は、ぽつりと言った。
「済寧が襲われれば、真っ先に狙われるのは、潘家のような家だ」
陳志遠が、拳を握った。
「では、我々は、どうするのです。逃げますか。それとも――」
「逃げる、か」
朱慈煥は、目を閉じた。
逃げるのは、容易だった。自分たちは、もともと根無し草だ。生員の身分という足場は得たが、命あっての足場である。済寧に義軍が迫るなら、それを捨てて、また別の地へ逃れればいい。これまで、何度もそうしてきた。
だが――世話になった人たちを、見捨てて。
朱慈煥は、目を開けた。
「……俺は、迷っているんだ」
正直な言葉だった。
「逃げるのは、簡単だ。でも、潘様には、恩がある。あの人は、何も知らずに、ただの寺育ちの孤児だと思って、俺たちを助けてくれた。その恩を、危急の時に、見て見ぬふりをして逃げる。――そんなことが、できるだろうか」
「ですが、朱兄」
陳永華が、慎重に口を開いた。
「朱兄の身は、朱兄一人のものではありません。朱兄に万一のことがあれば、これまでの全てが、水の泡です。情に流されて、危地に身を置くのは――」
「分かっているよ」
朱慈煥は、頷いた。
永華の言うことは、正しかった。自分の身は、軽くない。ここで義軍の混乱に巻き込まれて命を落とせば、これまで生き延びてきた意味が、なくなる。
冷徹に考えれば、潘家を見捨ててでも、逃げるのが正解だった。
だが――
「永華。覚えているかな」
朱慈煥は、静かに言った。
「同安で、君の父上が言った言葉だ。『その大義で、民は救えるのか』と、君は父上に問うただろう」
永華の目が、わずかに揺れた。
「明への忠義という、大義がある。でも、その大義を掲げる軍が、現実の民を――潘様のような人を、襲おうとしている。大義と、目の前の一人。……俺は、目の前の一人を、見捨てたくないんだ」
朱慈煥は、そう言って、二人を見た。
「だけど、無謀に戦うつもりもない。俺たちは、三人だ。義軍の大軍を、相手にできるはずがない。だから――考えよう。逃げるのでも、ただ立ち向かうのでもない、第三の道を」
「第三の道、ですか」
「うん」
朱慈煥は、灯火を見つめた。
「まずは、報せを集めたい。榆園軍が、本当に済寧へ向かっているのか。いつ、どれほどの兵力で来るのか。済寧の守りは、どうなっているのか。――敵の形が見えなければ、手の打ちようもないからね」
朱慈煥の目に、いつもの、盤面を見据える光が戻っていた。
「志遠は、町の様子を探ってくれないか。城門の守り、兵の動き、町の者たちの噂。永華は、潘家へ行って、それとなく当主の考えを聞いてきてほしい。潘様自身が、どうするつもりなのか。逃げる気か、留まる気か。それによって、俺たちの動きも変わるから」
「朱兄は」
「俺は……」
朱慈煥は、少し考えた。
「俺は、もう一度、西からの噂を、丹念に拾い集めるよ。商人、流民、逃げてきた者――この恵生堂には、いろんな人間が出入りする。薬を売りながら、彼らの話を、一つ残らず情報を収集しよう」
灯火が、静かに揺れた。
平穏な日々は、終わった。
また、乱世が、すぐそこまで、迫っていた。
「……動こう」
朱慈煥は、低く、しかし確かな声で言った。
「まだ、間に合う。手はあるよ」




