小さな足場
永暦元年(一六四七年)二月 山東省済寧州
日が、傾き始めていた。
考棚の中は、朝の張り詰めた静寂とは、少し違っていた。長い一日に疲れ果てた者の、深い溜息。筆を投げ出すような、紙をめくる乾いた音。あちこちで、受験者たちの集中が、ほつれ始めていた。
朱慈煥は、すでに筆を置いていた。
答案は、書き上げていた。破題から束股まで、型に淀みなく沿い、朱子の解釈を踏まえ、聖人の口吻で、為政の道を論じきった。後は、誤字を検め、墨の乾くのを待つばかりだった。
ふと、少し離れた世璉の席に、目をやった。
少年は、まだ筆を握っていた。
額に汗を浮かべ、唇を引き結び、一字一字を、絞り出すように書いている。決して器用ではない。だが、その筆は、止まらなかった。途中で諦めることも、投げ出すこともなく、ただ懸命に、自分の学んだものを、紙の上に刻もうとしている。
――よく、やっている。
朱慈煥は、内心で頷いた。
自分のように、知識が型ごと頭に入っているわけではない。十二の少年が、持てるものすべてを使って、必死に食らいついている。その姿は、技巧では測れぬ、確かな何かを宿していた。
やがて、日没を告げる時が来た。
「筆を置け! 刻限である!」
役人の声が、考棚に響いた。
受験者たちが、一斉に筆を置く。安堵とも、無念ともつかぬ吐息が、あちこちから漏れた。答案が、順に集められていく。
朱慈煥は、自分の答案が回収されるのを、静かに見届けた。
これで、終わった。
あの「治国平天下」の四文字に込めた、声にならぬ祈りも、今は役人の手に渡り、ただの一枚の答案として、束ねられていく。
考棚の門を出ると、外はもう、夕闇が迫っていた。
長い一日だった。朝の点呼から、日没まで。張り詰め続けた神経が、門を出た途端、どっと緩んだ。冬の冷たい空気が、火照った頭に心地よかった。
「朱兄!」
声がした。
門の前に、陳永華と陳志遠が待っていた。一日中、ここで待っていたのだろう。永華が、足早に近づいてくる。
「お疲れ様でした。どうでしたか」
「書くだけは、書いたよ」
朱慈煥は、軽く肩を回しながら答えた。
「型は外していない。中身も、間違ってはいないはずだ。あとは、向こうがどう読むか次第だな」
「朱兄が書いたなら、心配いりません」
永華は、当然のように言った。それから、声を少し落とした。
「……題は、何でしたか」
「『修身斉家治国平天下』だ」
永華の眉が、わずかに動いた。聡いこの少年は、その題が朱慈煥にとって何を意味するか、一瞬で察したのだろう。だが、何も言わなかった。ただ、静かに頷いた。
朱慈煥も、それ以上は語らなかった。
考棚の中で胸をよぎった、あの乾いた皮肉も、声にならぬ祈りも、わざわざ口にすることではない。永華が察し、黙ってくれた。それで、十分だった。
「あ……朱文殿!」
少し遅れて、世璉が門から出てきた。
少年は、疲れ切った顔をしていたが、その目には、やり遂げた者の、ささやかな光があった。
「終わりました……僕、最後まで、書きました」
「ああ。見ていた。立派だったぞ」
朱慈煥が言うと、世璉の顔が、ぱっと明るくなった。
「ほんとですか!」
「ほんとうだ。途中で投げ出さなかった。それが、一番難しいことだ」
世璉は、照れたように、しかし嬉しそうに、頭をかいた。
四人は、夕闇の道を、恵生堂へと歩いた。
長い一日が、終わった。あとは、結果を待つだけだった。
それから、数日が過ぎた。
県試の後には、初復、二復といった再試があり、その都度、合否が絞られていく。朱慈煥と世璉は、その関門を、一つ、また一つと、越えていった。
そして、すべての試験が終わり、最終の合格者が掲 示される日が来た。
その朝、州署の門前には、大勢の人だかりができていた。受験した童生たち、その家族。誰もが、掲示板に貼り出される、合格者の名簿を、固唾を呑んで待っていた。
朱慈煥、世璉、永華、志遠の四人も、その人だかりの中にいた。
世璉は、落ち着かない様子で、何度も足踏みをしていた。
「だ、大丈夫でしょうか……」
「書くものは、書いたんだろう」
朱慈煥が言った。
「なら、あとは待つだけだ。気を揉んでも、結果は変わらん」
「朱文殿は、平気そうですね……」
「平気じゃないさ。ただ、顔に出さないだけだ」
朱慈煥は、わずかに笑った。
実のところ、落第するとは思っていなかった。だが、万が一ということもある。答案の出来不出来ではなく、別の理由で——たとえば、偽った素性に、何か綻びが見つかって——弾かれる可能性も、ゼロではない。胸の奥に、わずかな緊張がなかったと言えば、嘘になった。
やがて、役人が現れ、合格者の名簿が、掲示板に貼り出された。
人だかりが、どっと前へ押し寄せる。
歓声と、落胆の声が、同時に上がった。我が子の名を見つけて泣き崩れる母親もいれば、肩を落として去っていく老童生もいた。一枚の名簿が、人々の悲喜を、くっきりと分けていた。
世璉が、必死に背伸びをして、名簿を見上げた。
「あ……あった! 僕の名前だ! 潘世璉! 受かった! 父上に……父上に知らせなきゃ!」
少年は、飛び上がらんばかりに喜んだ。その目には、うっすらと涙が滲んでいた。初めての試験。必死に食らいついた、その努力が、報われた瞬間だった。
「よかったな、世璉」
朱慈煥は、少年の頭を、軽く撫でた。
そして、自分の偽りの名を、名簿の中に探した。
――あった。
朱文。
辿るべき家のない、寺育ちの孤児。その偽りの名が、確かに、合格者の列に刻まれていた。
これで、生員の身分が手に入る。素性の知れぬ薬種商ではなく、童子科を通った学生。この乱世で、身を隠して生きるための、確かな盾。
朱慈煥は、その二文字を、静かに見つめた。
「朱兄、おめでとうございます」
永華が、傍らで、穏やかに言った。
「ああ」
朱慈煥は、頷いた。
奇妙な感慨が、胸に広がっていた。明の血を引く者が、清の試験に通り、清の生員となる。皮肉と言えば、これほどの皮肉もない。だが、その皮肉な身分が、これから自分を守ってくれる。生き延びるための、一つの足場になる。
――生きて、為すべき時を待つ。
その道のりに、また一つ、小さな足場を築いた。それだけのことだった。だが、その「それだけ」を、一つずつ積み重ねていくことでしか、この乱世は、越えていけない。
州署の門前は、人々の歓声と涙で、満ちていた。
冬の終わりの、淡い日差しが、その喧騒を、静かに照らしていた。




