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明末の麒麟児  作者: sawami
第7章
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治国平天下

 試題が、場の正面に掲げられていた。

『修身斉家治国平天下』

 大学の一節だった。身を脩め、家を斉え、国を治め、天下を平らかにする。為政の根本を説く、王道中の王道の題である。

――無難な題だ。

 朱慈煥は、内心でそう思った。

 ひねりのない、正統な出題。八股の型に沿って、朱子の解釈を踏まえ、正しく論じればいい。前世で読み込んだ知識が、すでに答えの骨格を組み上げ始めていた。破題はこう起こし、承題でこう受け、中股の対句はこう置く——筆を執る前から、文章の形は見えていた。

 朱慈煥は、筆に墨を含ませた。そして、紙に向かった。破題の二句を、書き起こす。筆は、淀みなく動いた。修身から斉家へ、斉家から治国へ、治国から平天下へ。一身を脩めることが、いかにして天下を平らかにすることへ連なるか。その理を、聖人の口吻で、対句を連ねて論じていく。

順調だった。手は、勝手に動いた。知識が、型が、すべて揃っている。これほど書きやすい題もない。

 だが――「治国」の二字を書いた、その時だった。

 朱慈煥の筆が、わずかに、止まった。

 国を治める。

 その四文字が、墨を吸って、紙の上に黒々と立っていた。

――妙な巡り合わせだ。

 胸の奥が、ことりと音を立てた。

この「治国平天下」を、本当に担おうとしている者たちが、今、南にいる。

 朱慈煥は、知っていた。隆武帝は前年に倒れたが、明は、まだ完全には潰えていない。広東では、新たに永暦帝が立った。福建の海では、鄭成功が、なおも清と戦い続けている。南明の旗は、ぼろぼろになりながらも、まだ掲げられている。

 その明の――いやしくも血を引く自分が、名を偽り、清の試験で、よりによって『治国平天下』を論じている。

 なんという、めぐり合わせだろうか。

 南の地で、明の名を奉じる者たちが、文字通り命を懸けて「治国平天下」を実現しようともがいている、まさにその時に。自分は、清の考棚の中で、聖人になりかわって、為政の理想を、よどみなく書き連ねている。

 朱慈煥は、筆を止めたまま、紙の上の「治国」の二字を見つめた。

 皇族としての矜持が、胸を焦がす——というのとは、少し違った。朱慈煥には、もともと「皇族として国を背負うべきだ」という、強い気負いはなかった。むしろ、その重い立場から、逃れたいとさえ思ってきた。だから、この皮肉も、血を吐くような無念というより、どこか乾いた可笑しさを伴って、胸に落ちてきた。

 ――皇子が、敵国の試験で、治国の道を説く。

 物語ならば、嗤い話だ。

 だが、現実の自分は、それを大真面目にやっている。生き延びるために。

 朱慈煥は、ふっと、口の端をわずかに緩めた。

ここで筆を止めれば、ただの落第だ。落第すれば、生員の身分は得られず、潜伏の盾も手に入らない。潘家の保証を、無駄にすることにもなる。そして何より――この程度の皮肉に筆を乱すようでは、これから先の長い道を、生き抜くことなどできはしない。

 形だけ従えばいい。

 朱慈煥は、自分に言い聞かせた。

 清の試験官が読みたい言葉を、型に沿って、書いてやればいい。だが、ここに込める「治国平天下」の理想は――それは、清のためのものではない。

いつか、この乱世が果てたとき。

 南で戦う者たちが勝つにせよ、敗れるにせよ、いずれ誰かがこの天下を治めねばならぬ。その時、民が安んじて暮らせる世であってほしい。その願いだけは、本物だった。たとえ清の答案用紙の上であっても、書き記す「治国平天下」の志は、誰に捧げるものでもない。朱慈煥自身の、ささやかな祈りだった。

 そう思うと、止まっていた筆が、再び動き出した。

 朱慈煥は、書いた。

 身を脩めることの意味を。家を斉えることの意味を。国を治め、天下を平らかにすることの、その遠く、険しい道のりを。

 聖人の言葉を借りながら、その一画一画に、彼自身の、声にならぬ祈りを込めて。

 筆は、もう止まらなかった。

 皮肉は、皮肉のまま、胸の底に沈めた。そのうえで、書くべきものを、書いた。明への屈託も、清への思いも、すべて飲み込んで、ただ型に沿って、淀みなく。

 墨が、紙を黒く染めていく。

 考棚の静寂の中で、朱慈煥の筆だけが、静かに、しかし確かに、走り続けていた。

――生きて、書く。

 それが、今の自分にできる、ただ一つのことだった。

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― 新着の感想 ―
長い中国史だと、前王朝所縁のものがそれを滅ぼした新王朝に仕えるというのは何度か見られますけど、実際にそうする人々の複雑さに触れられた気分です。
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