考棚の門
永暦元年(一六四七年)二月 山東省済寧州
県試の日が、来た。
まだ夜も明けきらぬ刻限、朱慈煥は潘家の門前に立っていた。
潘世璉が、緊張した面持ちで父・潘汝霖の傍に立っている。十二の少年は、初めての試験を前に、顔を強張らせていた。手にした筆墨の包みを、何度も握り直している。
「世璉、肩の力を抜け」
潘汝霖が、息子の背を軽く叩いた。
「お前は、よく学んだ。あとは、いつも通りにやればよい。朱文殿も一緒だ。心強かろう」
「……はい、父上」
世璉は、ぎこちなく頷いた。それから、朱慈煥を見上げた。
「朱文殿。その……よろしく、お願いします」
「ああ。隣に俺もいる。一人で受けるわけじゃない。気を楽に持とう」
朱慈煥は、穏やかに笑いかけた。
陳永華と陳志遠は、見送りに来ていた。試験を受けるのは朱慈煥と世璉の二人だけだ。永華は受けないと決め、志遠はそもそも学問の道ではない。
「朱兄」
永華が、低い声で言った。
「擡頭の作法、忘れないでください。あれを誤れば、一発で落ちます」
「分かっている」
朱慈煥は短く答えた。
擡頭。答案の中で、敬うべき語が出てきたとき、改行して通常より上から書き出す作法。昨夜、永華に念入りに叩き込まれた。だが、朱慈煥には、それが単なる作法の問題ではないことが、分かっていた。
清の試験で、敬うべき語とは何か。
その答えを、朱慈煥は、まだ胸の奥にしまったままだった。
「行ってくる」
朱慈煥は、それだけ言って、踵を返した。
世璉が、慌てて後を追った。
県試の会場は、済寧の州署内に設けられた考棚だった。
夜明け前だというのに、その門前には、すでに大勢の受験者が集まっていた。年少の童生から、白髪混じりの老童生まで、年齢はさまざまだ。皆、筆墨と、わずかな食料だけを携え、緊張の面持ちで門が開くのを待っていた。
「すごい人だ……」
世璉が、気圧されたように呟いた。
朱慈煥は、黙って周囲を観察していた。
門の前には、役人と兵が立っている。受験者を一人ずつ確認し、不審な者がいないか、目を光らせていた。出願時の届け出と照らし合わせ、保証人の確認をしているのだろう。
やがて、夜の闇がわずかに薄らぎ始めた頃、門が開いた。
「点呼を始める! 名を呼ばれた者は、前へ出よ!」
役人の声が、朝の冷気を裂いた。
受験者たちが、列を成す。一人ずつ名が呼ばれ、保証の確認を経て、門をくぐっていく。
「潘世璉!」
世璉の名が呼ばれた。
少年は、びくりと肩を震わせた。
「行ってこい」
朱慈煥が、小声で背を押した。
世璉は、こくりと頷き、強張った足取りで前へ進んだ。役人が、潘家の保証を確認し、世璉を通す。少年の小さな背が、門の向こうへ消えていった。
そして――
「朱文!」
朱慈煥の、偽りの名が、呼ばれた。
朱慈煥は、静かに前へ出た。
「籍貫と、保証人を申せ」
役人が、帳面から顔も上げずに言った。
「慈恩寺にて育ちました、朱文と申します。保証人は、潘汝霖様にございます」
朱慈煥は、淀みなく答えた。何度も頭の中で繰り返した、偽りの素性。寺育ちの孤児。辿るべき家のない、身寄りのない少年。
役人は、帳面の「潘汝霖」の名を確認すると、わずかに頷いた。郷紳の保証は、それだけで信用に足る。
「よし。次――搜検へ回れ」
まずは、搜検。身体検査だった。
朱慈煥は、言われるまま、門の脇の検めの場へ進んだ。
そこでは、別の役人が、受験者の身体と持ち物を、一人ずつ検めていた。替え玉や、懐に忍ばせたカンニングの書き付けを、見逃さぬためだ。
「腕を上げよ」
役人が、無愛想に言った。
朱慈煥は、両腕を広げた。役人の手が、衣の上から身体をなぞり、袖の中、懐、帯の内側を改めていく。続いて、携えた筆墨の包みが開かれ、筆の軸、墨、硯、そしてわずかな干し飯までが、一つ一つ検められた。
朱慈煥は、表情を変えなかった。
やましいものは、何も持っていない。持ち込んだのは、筆墨と食料だけ。素性の偽りは、紙の上にも、身体にも、痕跡を残していない。ただ、彼の頭の中にだけ、本当の名が眠っている。それは、どんな搜検でも、暴くことはできなかった。
「……よし。通れ」
役人が、顎で門を示した。
「ありがとうございます」
朱慈煥は、軽く頭を下げ、門をくぐった。
考棚の内へ。
考棚の中は、ひっそりとしていた。
板で仕切られた、簡素な席が、整然と並んでいる。受験者たちは、割り当てられた席に着き、静かに筆墨を整えていた。咳一つ、衣擦れ一つが、やけに大きく響く。張り詰めた静寂が、場を満たしていた。
朱慈煥は、自分の席を見つけ、腰を下ろした。
少し離れた席に、世璉の姿が見えた。少年は、青ざめた顔で、じっと前を見据えている。よほど緊張しているのだろう。朱慈煥は、世璉と目が合うと、わずかに頷いてみせた。落ち着け、と。世璉は、強張った顔のまま、小さく頷き返した。
朱慈煥は、硯に水を注ぎ、墨を磨り始めた。
墨が、静かに、円を描く。
その単調な動きが、かえって心を鎮めた。
――妙なものだ。
墨を磨りながら、朱慈煥は思った。
前世では、何度この四書の文を読んだか分からない。論語も、孟子も、その一句一句が、頭に染み込んでいる。科挙という制度も、研究者として、幾度となく書物の上で扱った。郷試、会試、殿試。考棚の構造、搜検の作法、八股文の型。論文の中で、史料の中で、それらは整然とした「制度」として、文字の連なりとして、目の前に並んでいた。
今では板で仕切られた、この狭い席。墨の匂い。隣の席から漏れる、押し殺した息遣い。筆を握る指の、わずかな汗ばみ。白髪の老童生が、何十年も挑み続けてきたであろう、その背中の丸み。年端もいかぬ童子が、青ざめて筆を握りしめる、その細い肩の震え。
これは、文字ではなかった。
かつて、論文の脚注で「童試は県試・府試・院試の三段階を経て生員の資格を得る」と、たった一行で済ませた、その一行の中に――こんなにも多くの、生身の人間の、息と汗と祈りが詰まっていたのか。
朱慈煥は、墨を磨る手を、わずかに緩めた。
胸の奥に、研究者であった頃には決して味わえなかった、奇妙な震えが走った。それは、感動とも、畏れとも、戸惑いともつかぬものだった。自分が生涯をかけて文献から学んだものの「実物」が、今、五感のすべてを通して、ここにある。乾いた知識が、生きた手触りを得ていく。
――俺は、本当に、この時代を生きているのだな。
何度も自分に言い聞かせてきたことが、今この瞬間、改めて、骨の髄まで染み込んでくるようだった。
明の皇族として生まれ、清の世で、清の試験を受けている。歴史を、外から眺める者ではなく、その中を生きる者として。




