空々しい経歴
永暦元年(一六四七年)二月 山東省済寧州
童子科を受けると決めた朱慈煥が、まず向き合わねばならなかったのは、試験そのものではなかった。
出願だった。
恵生堂の裏間で、朱慈煥は陳永華から、童試の手 続きについて聞いていた。
「県試の出願には、姓名、年齢、籍貫、それから三代の履歴を届け出る必要があります」
永華は、帳面に筆を走らせながら言った。
「祖父、父、本人――三代がどこの誰で、何をしていたか。それを記して、役所に提出します。加えて、身元の保証が要ります。同じく受験する者五人の互結か、あるいは本県の廪生の保証。素性の確かな者でなければ、そもそも受けさせてもらえません」
「厄介だな」
朱慈煥は、腕を組んだ。
三代の履歴。それは、朱慈煥にとって最も触れられたくない部分だった。本当のことなど、書けるはずがない。崇禎帝の子、などと記せば、その瞬間に首が飛ぶ。
「偽らねばならんな。三代とも」
「はい。ですが、下手な偽りは、かえって危うい。役所が調べれば、すぐに露見します」
永華の言う通りだった。よくある姓名で、ありふれた家柄を騙っても、籍貫を辿られれば「そんな家はない」と露見する。かといって、実在の家を騙れば、その家の者と引き合わされたときに終わる。
朱慈煥は、しばらく考え込んだ。
「……寺だ」
ぽつりと言った。
「寺、ですか」
「俺は、もともと修行僧を装っていた。潘家にも、還俗したと説明している。その筋を、そのまま使う」
朱慈煥は、頭の中で、偽りの経歴を組み立てていった。
「幼い頃に身寄りを亡くし、小さな寺に引き取られて育った。寺で経書を学び、長じて還俗し、今は薬の道で身を立てている。――こうすれば、三代の履歴を細かく問われても、躱せる。寺で育った孤児には、辿るべき家系などないからな」
永華の目が、わずかに見開かれた。
「……なるほど。身寄りのない寺育ちなら、家柄を調べようがない」
「そうだ。しかも、寺で経書を修めたとすれば、童子科を受けるだけの学があることにも、筋が通る」
朱慈煥は続けた。
「寺の名は……そうだな、実在の大寺では危ない。誰かが知っていれば、綻ぶ。小さな、田舎の寺がいい。乱世で焼けて、今はもうない寺なら、なお都合がいい。確かめようがないからな。北の戦乱で焼けた、名もない小寺。そこで育ち、寺が失われたのを機に還俗した。――これなら、調べても何も出てこない」
朱慈煥は、筆を取った。
そして、架空の寺の名を、紙に記した。
慈恩寺。
どこにでもありそうな、ありふれた名だった。北直隷のはずれ、戦乱で焼け落ちた小さな寺。そこで育った孤児の「朱文」。身寄りはなく、三代を辿る家もない。
「我ながら、空々しい経歴だ」
朱慈煥は、苦笑した。
「だが、空々しいくらいで、ちょうどいい。下手に作り込めば、かえって粗が出る。孤児の寺育ち、それ以上は何もない。役人が興味を失うくらいが、ちょうどいいんだ」
陳永華は、その偽りの経歴を、感心したように眺めていた。
「……朱兄は、嘘をつくのが、お上手ですね」
「褒めているのか、それは」
「半分は」
「残りの半分は」
「呆れています」
朱慈煥は、声を立てずに笑った。
身元の保証は、潘家が引き受けてくれた。
潘汝霖は、朱慈煥が童子科を受けると伝えると、心から喜んだ。
「おお、受けてくれるか。世璉も心強かろう。保証のことなら、任せておけ。うちが立てば、役所も文句は言うまい」
潘家は、済寧でも名の通った郷紳である。その保証があれば、「身元の確かな者」として、出願は通る。潘汝霖は、朱文が寺育ちの孤児であることを、何の疑いもなく受け入れ、保証人の欄に名を連ねてくれた。
その厚意に、朱慈煥は深く頭を下げた。
そして、内心で、小さく詫びた。
潘汝霖は、何も知らない。朱文が、寺育ちの孤児などではないことを。その正体が、明の皇族であることを。ただ純粋に、再会した若者の門出を喜び、力を貸してくれている。
その善意が、朱慈煥の胸に、重く沈んだ。
だが、真実を明かすことは、できなかった。明かせば、潘家ごと、清の禍に巻き込むことになる。知らぬまま、ただの寺育ちの薬種商を助けたのだと思っていてもらう方が、潘家のためにも、ずっと良かった。
――いつか、この恩は、必ず返します。
朱慈煥は、心の中で、そう誓った。




