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明末の麒麟児  作者: sawami
第7章
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それぞれの答え

永暦元年(一六四七年)二月 山東省済寧州 恵生堂

 

 夜が更けていた。

 恵生堂の裏間は、薬の匂いが染みついた狭い部屋だった。昼の喧騒が嘘のように静まり、表からは時折、夜回りの拍子木の音が聞こえてくるばかりだった。

 三人は、小さな灯火を囲んでいた。

声を潜めなければならなかった。薄い壁の向こうには、主人の趙夫婦が眠っている。この話は、誰にも聞かれてはならなかった。

「潘様から、童子科の誘いを受けたんだ」

 朱慈煥は、低い声で切り出した。

「世璉殿の付き添いに、俺と永華も一緒に受けてみないか、と」

 陳志遠が、眉を寄せた。

「童子科……科挙の、子ども向けのものでしたか」

「そうだ」

「朱兄が、清の試験を受けると?」

 志遠の声に、戸惑いがあった。当然だった。朱慈煥がどういう生まれであるか、志遠は知っている。その朱慈煥が、清の試験を受ける。それがどういうことか、志遠にも分かっていた。

朱慈煥は、すぐには答えなかった。

 灯火が、小さく揺れた。

「……俺は、受けようと思っているんだ」

 陳永華が、顔を上げた。

「本気ですか」

「本気だよ」

 朱慈煥は、静かに頷いた。

「最初は、俺も迷った。受けることに、思うところがないと言えば、嘘になる。腹の底が煮えるような心地もした。……だが、考えるうちに、見えてきたんだ。これは、髪を切ったのと同じだ、とね」

「髪、ですか」

「瑞安で、剃髪を強いられた村を見ただろう。俺たちも、形だけ髪を切った。心まで渡したわけじゃない。清に従う形をとりながら、心は元のまま残した。……童子科も、同じだと思っている」

 朱慈煥は、灯火を見つめた。

「清の試験を受ける。だが、それは形だけだ。受かれば、生員の身分が手に入る。素性の知れない薬種商より、童子科に通った学生の方が、ずっと身元として固い。この乱世で、身を隠して動くには、それが盾になる」

「身を守るために、受けると」

「それもある」

 朱慈煥は、頷いた。

「だが、それだけじゃないんだ。いつか、為すべき時が来る。その時のために、今は生き延びる。形だけ頭を下げて、心は元のまま、力を蓄える。……死んだ忠義より、生きて為すことを、俺は選びたい」

 陳志遠は、しばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。

「……俺には、難しいことは分かりません」

正直な言葉だった。

「ですが、朱兄が決めたなら、俺はそれに従います。朱兄が生きていること。それが、一番大事です」

 朱慈煥は、わずかに笑った。

「ありがとう、志遠」

 そして、朱慈煥は陳永華を見た。

 永華は、灯火の傍で、じっと考え込んでいた。

「永華は、どうする」

問われて、永華は、ゆっくりと顔を上げた。

その目には、迷いと、しかし芯のある光があった。

「……私は、受けません」

 静かな、しかしはっきりとした声だった。

 朱慈煥は、驚かなかった。ただ、続きを待った。

「私は、学問の家に生まれました。父は、命より重き大義を説く人でした。私はそれに反発した。書物の中の仁義では、人は救えないと思った。……それは、今も変わりません」

 永華は、自分の手元を見つめた。

「ですが、だからといって、清の試験を受ける気には、なれないのです。私の学は、清に仕えるために積んだものではない。……うまく言えません。ただ、これは、理屈ではないのです」

「理屈ではない、か」

「はい」

永華は、顔を上げた。

「朱兄のお考えは、分かります。形だけ従い、心は渡さない。それは、正しいと思います。生き延びてこそ、為すべきこともできる。……でも、私は、私の学を、いつか別の場所で使いたいのです。清の科挙ではない、どこか別の場所で。それがどこかは、まだ分かりません。でも、きっと、あるはずなんです」

 朱慈煥は、永華の言葉を、静かに聞いていた。

 別の場所で、自分の学を使う。

 それが、どれほど遠い夢か、永華自身、分かっているのだろう。明は崩れ、清が天下を覆おうとしている。そんな中で、「清に仕えず、しかし学を活かす」道など、あるのかどうか。

 だが、朱慈煥には、なぜか見えるような気がした。

 この少年は、いつか、それを成すのではないか。どこか遠い場所で、清の科挙とは別の形で、自分の学問を、世のために使う日が来る。そんな予感があった。

「……いい答えだと思うよ」

 朱慈煥は、静かに言った。

「永華は永華の道を行けばいい。俺は、その選択を尊重するよ。間違いだとは、少しも思わない」

 永華は、少し驚いたように朱慈煥を見た。

「朱兄こそ。受けるという朱兄の選択も、私は、間違いだとは思いません」

 二人は、しばし見つめ合った。

 同じ、明への思いがあった。だが、そこから導き出した答えは、正反対だった。一人は受け、一人は受けない。一人は形に従い、一人は形を拒む。

 それでも、互いの選択を、否定しなかった。

「……お前たちは、本当に難しい」

陳志遠が、ぼそりと言った。

「同じことを話しているはずなのに、逆の答えになって、それで二人とも納得している。俺には、さっぱりだ」

 朱慈煥が、思わず吹き出した。永華も、小さく笑った。

 張り詰めていた部屋の空気が、わずかに緩んだ。

「だが、それでいいんだよ、志遠」

 朱慈煥は言った。

「答えは、一つじゃない。同じ道を、違うやり方で歩く。それでいいんだ」

 灯火が、静かに揺れていた。

 夜は、まだ深かった。

「さて」

 朱慈煥は、灯を吹き消す前に、最後に言った。

「受けると決めた以上、無様な点は取れないな。仮にも学があると見込まれた手前、落第しては格好がつかない」

「それは、心配いりません」

 永華が、珍しく悪戯っぽく言った。

「朱兄なら、目を閉じていても通ります。問題は、世璉殿の隣で、できすぎて怪しまれないことの方かと」

「……それは、確かに」

 朱慈煥は、苦笑した。

 狭い裏間に、三人の押し殺した笑いが、小さく響いた。

 灯が、消えた。

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