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明末の麒麟児  作者: sawami
第7章
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童子科への誘い

 その夜、朱慈煥は潘家を訪ねた。

 潘家の屋敷は、相変わらず落ち着いた佇まいだった。乱世とは思えぬほど手入れの行き届いた庭を抜け、朱慈煥は当主の待つ一室へ通された。

潘家の当主・潘汝霖は、朱慈煥を見ると、温かく迎えた。

「よく来てくれた。薬舗の暮らしはどうだ。趙のところなら、悪いようにはされまい」

「おかげさまで、よくしていただいております」

 朱慈煥は丁寧に礼を述べた。

 しばし世間話が続いた後、潘汝霖はふと、思い出したように切り出した。

「実はな、折り入って頼みがある。いや、頼みというより、誘いだ」

「誘い、ですか」

「うむ。うちの倅――世璉のことだ」

 潘汝霖の顔が、わずかにほころんだ。

「あれも今年で十二になってな。経書の覚えは悪くない。そろそろ、童子科を受けさせようと思っておる」

 童子科。年少の優れた子弟を対象とした、神童の試験である。十五歳以下の、特に経書に通じた子を見出す枠だった。

「めでたいことです」

 朱慈煥は、当たり障りなく応じた。だが、内心では、すでに当主の次の言葉を予期していた。

「それでな」

 潘汝霖は、人の好い笑みを浮かべた。

「世璉も、初めての試験で心細かろう。お前さんは学があるし、連れの永華殿も、聞けばたいそうな秀才だというではないか。どうだ、世璉と一緒に、受けてみんか」

 朱慈煥は、すぐには答えなかった。

 童子科を受けるということは、清の試験を受けるということだ。清の科挙の体系に、自ら足を踏み入れること。明の皇族たる自分が――たとえ「朱文」という偽りの名であっても――清の試験を受ける。それが何を意味するか。

 だが、当主にそんな含みはない。ただ純粋に、息子の心細さを思い、学のある若者に同行を勧めているだけだった。それが、かえって朱慈煥の胸に、小さな棘のように刺さった。

「……一つ、伺ってもよろしいですか」

 朱慈煥は、慎重に口を開いた。

「潘様は――清の試験を受けさせることに、思うところはございませんか」

 問うてから、踏み込みすぎたかと思った。明への忠義を重んじる郷紳にとって、それは触れられたくない傷かもしれない。

 だが、潘汝霖は、気を悪くした風もなく、ただ静かに目を伏せた。

「……思うところが、ないと言えば、嘘になる」

 その声は、先ほどまでの朗らかさとは、少し違っていた。

「わしの祖は、明の朝廷に仕えた。河を治め、運河を守り、民を生かすことに、生涯を捧げた者だ。その血を引く家として……正直、清の試験に倅を出すのは、忸怩たるものがある」

潘汝霖は、卓の上で手を組んだ。

「だがな、朱文殿。もう、明はない」

 短い言葉だった。だが、その一言に、万感が込もっていた。

「弘光帝は捕らわれ、隆武帝も、もはや行方が知れぬ。福建の鄭氏も、当てにはならぬと聞く。明の旗を掲げる者は、各地でばらばらに散って、互いに争うばかりだ。……わしのような田舎の郷紳が、いくら明を思うたところで、何ができる」

 朱慈煥は、黙って聞いていた。

「世璉には、世璉の人生がある」

 潘汝霖の声に、諦めとも、覚悟ともつかぬ響きがあった。

「学んだものを活かす道が、科挙のほかにあるか。受けねば、あれの学んだ十年は、何にもならぬ。郷紳とて、いつまで安泰かは分からぬ。……時代の流れには、逆らえぬのだ。わしが明を思う気持ちと、倅を生かしてやりたい気持ちは、別の話よ」

 朱慈煥は、その言葉を、静かに受け止めた。

 時代の流れには、逆らえぬ。

 それは、諦めの言葉だった。だが同時に、一人の父親が、忠義と現実のはざまで、必死に出した答えでもあった。明を捨てたわけではない。ただ、息子を生かすために、頭を下げる。髪を剃るのと、同じだった。

「……差し出がましいことを、伺いました」

朱慈煥は、頭を下げた。

「いや」

 潘汝霖は、首を振った。そして、また人の好い笑みに戻った。

「で、どうだ。受けてみるか。なに、気楽でよい。世璉の付き添いのようなものだと思うてくれればな」

 朱慈煥は、すぐには答えなかった。

「……少し、考えさせてください」

「うむ。急ぐことではない。試験は、まだ先だからな」

 潘家を辞して、夜道を帰りながら、朱慈煥は考え込んでいた。

 時代の流れには、逆らえぬ――潘汝霖の言葉が、耳に残っていた。

 あの言葉は、潘家だけのものではない。剃髪を強いられた村人も、降清した兵も、髪を切った自分たちも、皆、同じ流れの中にいる。逆らえぬ流れの中で、それでもどう生きるかを、一人ひとりが選んでいる。

 童子科を受けるか、否か。

 それは、朱慈煥自身の問いでもあった。

 冬の終わりの夜風が、運河の上を吹き抜けていく。

 朱慈煥は、薬舗への道を、ゆっくりと歩いて行った。

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