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明末の麒麟児  作者: sawami
第6章
86/112

ようやく

永暦元年(一六四七年)正月 山東省済寧州


 邳州を抜け、台児荘、韓荘を経て、一行はついに山東に入った。

 道はなおも険しかった。微山湖の沿岸を北上する間も、清軍の哨戒と、抗清勢力の影が交互に現れた。曹州の方角からは、ときおり不穏な噂が風に乗って届いた。義軍が動いた。城が落ちた。村が焼かれた。だが、三人は足を止めなかった。止まれば、それまでだった。

 そして、長い旅の果てに——運河の向こうに、その町の影が見えてきた。

「あれが……」

 陳永華が、かすれた声で呟いた。

朱慈煥は、運河の北に広がる町並みを、黙って見つめた。

 大運河を貫いて、無数の船が行き交っている。岸辺には倉が建ち並び、米、塩、布、南北の特産品が山と積まれていた。淮安にも劣らぬ賑わいだった。だが、淮安が漕運の役所に張り詰めていたのに対し、済寧の空気はどこか柔らかい。商人の声が高く、市の活気が町全体を温めている。

 その光景に、朱慈煥は覚えがあった。

 かつて、北から南へ落ち延びる途中、この町に立ち寄ったことがある。南の絹の都になぞらえて「江北の小蘇州」とも呼ばれる、運河の要衝。あの時は、南京を目指す道すがらの束の間の滞在だった。それでも、近くの曲阜まで足を延ばし、孔廟、孔府、孔林を巡った。前世では古びて読めなかった石碑が、この時代では当たり前のように建っている――その一つ一つを食い入るように眺めた時の、胸の高鳴りを今でも覚えている。

 あの時は、まだ旅にも気持ちの余裕があった。

 だが今は違う。長い逃避行の果てに、ようやくたどり着いた一つの終点として、この町はある。同じ町でも、辿り着く者の事情が変われば、見える景色も変わる。朱慈煥は、静かにそう思った。

 城門には、清の兵が立っていた。

 出入りする者を、一人ずつ検めている。山東の情勢が不穏なだけに、警備は厳しかった。

 陳志遠が、わずかに身を硬くした。

「殿下……いえ、朱兄。どう抜けますか」

 朱慈煥は、すでに算段を終えていた。

「このまま、薬材商として通る」

「と、言いますと」

「俺たちが目指してきたのは、この町の潘家だ」

朱慈煥は、静かに言った。

「以前、世話になった郷紳の家だ。先祖に、河の治水で朝廷に仕えた者がいる。地元では、名の通った家のはずだ。その潘家へ薬を届けに来た出入りの薬種商――そういう体で通る」

 潘――その姓を、朱慈煥は記憶の底から手繰り寄せていた。かつてこの家で経を唱えた時、当主が誇らしげに語っていた。我が家は、かの潘季馴公の遠縁にあたるのだ、と。

 潘季馴。前世で、何度その名を論文に引いたか分からない。束水攻沙の理を確立し、四度にわたって黄河と運河を治めた、明代最高の治水家。その著した『河防一覧』は、後の三百年の治河の規範となった。教科書の中の、遥か遠い過去の人物――そう思っていた。

 だが、この時代では違う。潘季馴の死は、わずか五十年あまり前のことだ。今を生きる者にとっては、祖父の代に活躍した、まだ記憶に新しい先人なのだ。

 その遠縁の家が、この町にある。

「その潘家に、薬を届けに来た出入りの薬種商。そういう体で通る」

 朱慈煥は続けた。

「嘘ではない。薬は本当に持っている。潘家の名も、本当に知っている。あとは、堂々としていればいい。後ろ暗いところのある者ほど、目が泳ぐ。胸を張っている者を、兵はいちいち疑わない」

 陳永華が、小さく息を吐いた。

「……相変わらず、肝が据わっていますね」

「ここまで来て、震えていられるか」

 朱慈煥は、わずかに笑った。

三人は、荷を担ぎ直し、城門の列に並んだ。

 順番が来た。

「どこから来た。何の用だ」

 兵が、ぶっきらぼうに問うた。

 朱慈煥は、臆することなく答えた。

「南の方から、薬材を商って参りました。この町の潘家へ、薬をお届けに上がるところです」

「潘家?」

「はい。郷紳の潘様です。先祖に、河の治めで朝廷に仕えた方がおられると伺っております」

兵の表情が、わずかに緩んだ。地元の名望家の名を、よそ者の薬種商が当たり前のように口にする。その自然さが、かえって疑いを逸らした。

「……荷を検める」

 兵は荷をいくらか改めたが、出てきたのは薬材ばかりだった。車前草、艾葉、紫蘇、貝母。どれも、ありふれた薬草だった。

「行け」

 兵は、顎で先を促した。

「ありがとうございます」

 朱慈煥は丁寧に頭を下げ、荷を担いで城門をくぐった。

 陳志遠が、陳永華が、続いた。

 門を抜けた先に、済寧の町が広がっていた。

 運河の水面が、冬の光を受けて穏やかに揺れている。船頭の歌が、どこからか聞こえてくる。市の喧騒、墨の匂い、湯気を立てる屋台。これまで通ってきた、荒れた村や、もぬけの集落や、血の匂いのする水郷とは違う、人の営みの温もりがそこにあった。

 朱慈煥は、足を止めた。

 平海衛で一度死に、廈門から船を出し、辮髪の支配を目の当たりにし、剃髪を強いられた村を過ぎ、賊の矢をかいくぐり、義を騙る者を退け、塩の道を辿って――

 そして、ようやく。

「……着いたな」

 朱慈煥は、ぽつりと言った。

声に、力みはなかった。ただ、長く張り詰めていた糸が、わずかに緩むような響きがあった。

「着きましたね」

 陳永華が、隣で言った。その顔にも、疲れの底から滲み出るような、静かな安堵があった。

陳志遠は何も言わなかったが、いつも周囲を警戒していたその肩から、ほんの少しだけ力が抜けていた。

 冬の済寧の空は、淡く晴れていた。

運河の流れが、北へ、さらに北へと続いている。

長い旅の、一つの区切りだった。だが、朱慈煥には分かっていた。これは終わりではない。済寧で恩人と再会し、この乱世で身を寄せる場所を探し、そして――この国の行く末を、まだ見届けなければならない。

 それでも、今はただ。

「行こう。潘家は、すぐそこだ」

 三人は、人々の行き交う運河の町へと、ゆっくりと足を踏み入れた。

 ようやくたどり着いた、北の地へ。

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