義の名を騙る者
永暦元年(一六四七年)正月 江蘇省邳州
宿遷で運河の北上船を見つけられず、三人は再び陸路を選んだ。
邳州へ向かう道は、運河と廃黄河の間を縫うように続いていた。このあたりは黄河がたびたび決壊した土地で、道の脇には水に削られた土の崖や、泥に半ば埋もれた古い堤の跡が残っている。人の姿は、宿遷を出てから目に見えて減っていた。
「人が少ないですね」
陳永華が、警戒するように周囲を見た。
「山東が近い」
朱慈煥は答えた。
「淮安で読んだ布告にもあっただろう。曹州のあたりで抗清の軍が動いている。俺たちが船で足止めされたのも、それが理由だ。この先は、清の支配も明の支配も、どちらも届ききっていない土地だ。だから、人が道を避ける」
その時、前方の崩れた堤の陰から、数人の男が姿を現した。
粗末な装束に、手には刀や棍棒。中の一人が、布きれに墨で何か書いた粗末な旗を掲げている。「榆」とも「義」とも読める、雑な字だった。
「止まれ」
先頭の、髭面の大柄な男が言った。
「ここは榆園の義軍が押さえている。通りたければ、通行料を払え」
陳志遠が、すっと前に出た。腰の小刀に手をかける。
だが、朱慈煥はその袖を、軽く引いた。
「待て」
朱慈煥は、男たちを静かに観察した。
旗の字は雑で、墨も新しい。装束は揃っておらず、刀の握り方も素人のものが混じっている。何より――掲げている旗に、肝心なものがない。
「一つ、聞いていいか」
朱慈煥は、髭面の男に向かって言った。
「お前たちが榆園の義軍だと言うなら、誰を奉じている。曹州の主の名を、言ってみろ」
男の顔が、わずかに強張った。
「な、何だと」
「本物の榆園軍は、明の宗室を帝に奉じ、年号まで立てている。明の旗の下に集う者たちだ。義軍を名乗るなら、自分が誰の下に集っているかくらい、言えるはずだ」
男は答えられなかった。
仲間内で、目配せが交わされる。明らかに、動揺していた。
「言えないのか」
朱慈煥は、淡々と続けた。
「奉じる主の名も言えずに、義軍を名乗る。お前たちは、ただ義軍の名を借りて、通りすがりの者から銭を巻き上げているだけだ。……本物の榆園軍が、これを聞いたらどう思うだろうな」
髭面の男の額に、汗が滲んだ。
本物の義軍の名を騙ることが、どれほど危険か。それを突かれて、男たちは初めて自分たちの立場の脆さに気づいたようだった。
だが、追い詰められた獣は、かえって牙を剥く。
「……小僧が、減らず口を」
男が、刀を抜いた。
「知ったような口を利く餓鬼は、ここで黙らせる。荷も置いていけ」
陳志遠が再び身構えた。陳永華も、小刀の柄に手をかける。
その瞬間、朱慈煥はすでに動いていた。
荷の中から、油紙の小さな包みを取り出している。中身は、黒く乾いた莢を砕いた粉だった。
皀莢――サイカチの莢である。古くから、煎じて痰を切る薬や、衣を洗う洗剤として使われてきた。だが、その粉を細かく砕いて吸い込めば、激しいくしゃみと涙が止まらなくなる。医者が、気を失った病人の意識を呼び戻すために鼻へ吹き入れる「嚏薬」――くしゃみ薬としても用いられる代物だった。
朱慈煥は、風の向きを読んでいた。
風上だった。
「目を閉じて、息を止めろ」
仲間に短く告げると、朱慈煥は油紙の包みを開き、中の粉を宙へ撒いた。
冬の風が、黒い粉を男たちの方へ運んでいく。
一拍おいて――
「ぶえっ……!?」
髭面の男が、突然顔を歪めた。
「な、なんだ、これ……っ、へぶしっ!」
男たちは次々と、くしゃみと涙に襲われた。刀を構えていた手は顔を覆い、棍棒を持っていた者は地面にうずくまる。誰一人、まともに目を開けていられない。
「目が、目が開かねえ……っ、へぶしっ!」
「な、何が起きた……うぐっ、止まらねえ……!」
突然の異変に、何が起きたのかも分からないまま、男たちは混乱した。互いにぶつかり、よろめき、刀を取り落とす者までいた。
朱慈煥は、息を止めたまま、落ち着いた声で言った。
「今のうちだ。荷をまとめて、走れ」
三人は、くしゃみと涙にのたうつ男たちの脇を、足早に駆け抜けた。
しばらく走り、堤を二つほど越えて、ようやく足を緩めた。背後から追ってくる気配はない。あの様子では、しばらくはまともに動けないだろう。
陳永華が、息を切らしながら言った。
「……今のは、何だったのですか」
「皀莢の粉だ」
朱慈煥は、油紙の包みを懐にしまいながら答えた。
「痰を切る薬にもなるし、汚れを落とす洗剤にもなる。だが、粉を吸えば、ああなる。薬種商なら、たいてい少しは持っている」
「薬で、あんなことができるのですか」
「できる。だが、戦ったわけじゃない。動けなくして、逃げただけだ」
朱慈煥は、淡々と言った。
「こちらは三人だ。あの人数を相手にして、無事に切り抜けられるかは分からなかった。斬り合いになれば、誰か一人は怪我をする。それより、動けなくして逃げる方が確実だ」
陳永華は、しばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。
「……薬は、道具だと言いましたね。同安で」
「言ったな」
「使いどころを間違えれば毒にもなる、と。今日は、その逆を見ました。毒のようでいて、人を殺さず、ただ追い払う。……同じ粉が、薬にも、洗剤にも、武器にもなる」
朱慈煥は、少しだけ笑った。
「物の善し悪しは、物の側にはない。使う者の側にある。旗も、同じだ」
「旗、ですか」
「あの男たちは、義軍の旗を掲げていた。だが、旗が義を作るわけじゃない。同じ『榆園』の旗を、本物は明への忠義のために掲げ、あの偽物は通行料のために掲げる。旗の正しさと、それを掲げる者の正しさは、別なんだ」
陳永華は、その言葉を、静かに噛みしめていた。
旗印を信じて散っていった者たちのことを、これまでの旅で何度も見てきた。だが、旗そのものが正しさを保証するわけではない。掲げる者次第で、義軍は野盗にもなる。
「……難しいですね」
「難しい。だが、見分ける目を持たなければ、乱世では生き残れない」
朱慈煥は、北の空を見上げた。
この先、山東に入れば、本物の榆園軍とも、それを騙る者とも、もっと多く出会うことになるだろう。義の旗が乱れ飛ぶ土地で、何が本物で何が偽物かを見極めること。それもまた、この旅の試練の一つだった。
「行こう。邳州はもうすぐだ」
三人は、再び北へ向かって歩き出した。
廃黄河の濁った流れが、冬の光を鈍く照り返していた。




