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明末の麒麟児  作者: sawami
第6章
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項羽の故里

永暦元年(一六四七年)正月 江蘇省淮安府→宿遷州


 翌朝、陳永華は薬材問屋の主人のもとへ向かった。

 朱慈煥と陳志遠は宿で待った。

 永華が戻ってきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。

「話がつきました」

 開口一番、永華は言った。疲れた顔だったが、目に力がある。

「明後日の朝、内河塩運の隊商が宿遷へ向けて出立します。人足が一人、直前に足を痛めたそうで、荷運びの手が一つ足りない。私たちが薬師とその供として加わる代わりに、その穴を埋めます」

「交渉したのか」

「はい。最初は断られました。よそ者を入れると、検問で面倒が増えると言われて」

「どう口説いた」

 永華は、少しだけ得意そうな顔をした。

「先に薬を売りました」

「薬を」

「はい。艾葉と車前草を、相場より少し安く。それだけで、主人の顔が変わりました。薬の目利きができる者を、あちらから必要としてくれるようになった。欲しがっている者に売るのではなく、まず欲しがらせてから売る——父の商売で、子どもの頃に見ていたやり方です」

 陳志遠が小さく笑った。

「永華殿は、商家の子でもありましたね」

「同安で育ちましたので」

 朱慈煥は、永華の話を聞きながら、静かに頷いた。

 知略とは、相手を言い負かすことではない。相手が自分から動きたくなるように、場を整えることだ。それを、この少年はごく自然にやってのけた。

「よくやった」

「恐れ入ります」

 永華はそう言いながら、帳面を開いた。

「隊商の頭は劉という男です。寡黙ですが、筋は通る人物だと見ました。私たちの役割は、道中の人足の体調管理と、薬の処置です。薬材の荷は、隊商の荷に混ぜて積んでもらえます」

「城門は」

「劉の頭が、塩引を持っています。私たちは隊商の一員として、その塩引に名を連ねてもらいます」

朱慈煥は、息をゆっくりと吐いた。

「これで出られる」

「出られます」

 二日後の夜明け前、三人は荷をまとめて桟橋の裏手に集まった。

 隊商はすでに支度を整えていた。塩の俵を積んだ荷車が三台、驢馬が六頭、人足が十数人。隊商の頭・劉は、朱慈煥たちを一瞥しただけで何も言わなかった。

「出るぞ」

 城門が開く前の薄暗がりの中、一行は城の裏手の小門へ向かった。

 小門には、兵が二人いた。劉が塩引を差し出すと、兵は短く確認してから開けた。荷車が通り、驢馬が通り、人足が続いた。

 朱慈煥は、荷車の横を黙って歩いた。

兵の目が、一瞬こちらに向いた。朱慈煥は視線を逸らさず、ただ荷を担いで歩く人足のように、前を向いていた。

 兵は何も言わなかった。

 小門を抜けると、冬の朝の空気が頬を打った。

まだ夜明けの手前だった。空の端が、わずかに白み始めている。

 陳志遠が、ほんの少しだけ肩の力を抜くのが分かった。陳永華は、白い息を吐きながら前を向いていた。

 朱慈煥は、振り返らなかった。

 淮安の城壁が、背後に遠ざかっていく。

 塩運の隊商の歩みは、遅かった。

 荷車を引く驢馬は、ぬかるんだ道では何度も立ち止まった。人足たちは黙々と進み、休憩は短く、劉の頭は余計な話をしない。

 道は、大運河に沿って北へ続いていた。

運河の水面には、朝の光がゆっくりと差し込んでいた。岸辺には枯れ葦が風に揺れ、遠くに水鳥の影が見える。船の行き来は少なく、桟橋には係留されたままの船が静かに揺れていた。

「大運河は、こうして陸から見るとまた違いますね」

 陳永華が、荷を抱えながら言った。

「乗っている時は早く着きたいとしか思えませんでしたが」

「今は何を思う」

「広いな、と」

 永華は、運河の向こうの葦原を眺めた。

「水があって、道があって、人が動く。それだけで、これだけの町が成り立っている。清がここを手放せない理由が、歩いてみると分かります」

 朱慈煥は、永華の言葉を聞きながら、前を向いたまま頷いた。

 船に乗っていた時には見えなかったものが、陸を歩くと見える。道の傷み、橋の修繕、岸辺に捨てられた荷の残骸——それぞれが、乱世の痕を静かに語っていた。

 途中、道端の廃村の傍を通った。以前に見たもぬけの村と同じような光景だった。だが今回は誰も立ち止まらなかった。もう驚かなくなっていた。それが、この旅で変わったことの一つだと朱慈煥は思った。

 淮安を出て三日目の夕暮れ、宿遷の城壁が見えてきた。

 大運河と、かつての黄河の流れ——廃黄河が交わる場所に、町は静かに広がっていた。淮安の賑わいとは違う、落ち着いた佇まいだった。

 劉の頭は、町の手前で足を止めた。

「ここまでだ」

 朱慈煥は深く礼をした。

「助かりました」

 劉は頷いただけで、また前を向いた。隊商は塩の俵を積んだまま、宿遷の城門へ向かっていった。

 三人は、その背を見送った。

「……着きましたね」

 陳永華が、かすれた声で言った。

「着いた」

「足が棒のようです」

「驢馬の方が楽そうだったな」

「乗せてもらえばよかった」

「荷がある」

「荷より私の方が軽いかもしれません」

 朱慈煥は、思わず笑った。三日歩き通した後の、力の抜けた笑いだった。

 宿遷の城門の脇に、古い石碑が立っていた。

 朱慈煥は、その碑を見て、足を止めた。

「何と書いてありますか」

 陳志遠が尋ねた。

「項羽の故里」

 朱慈煥は静かに読んだ。

「ここは、項羽の生まれた土地だ」

 陳永華が、少し意外そうな顔をした。

「項羽、ですか。韓信と戦った」

「そうだ。韓信はここから少し南の淮安の生まれで、項羽はここ宿遷の生まれだ。二人は同じ江北の地で育って、天下を争った」

「どちらが強かったのですか」

「項羽だ。最後まで、戦では負けなかった」

「では、なぜ天下を取れなかったのですか」

 朱慈煥は、碑に刻まれた文字を見つめたまま答えた。

「強すぎたからだ」

 永華が目を上げた。

「一人で戦えば、誰にも負けない。だが天下は、一人の力では動かせない。人を使わず、人を信じず、最後は烏江で一人になった」

 朱慈煥は碑から目を離し、城門の方を向いた。

「韓信は股をくぐった。項羽は刀を抜いた。どちらが正しかったかは、歴史が答えた」

 永華は、しばらく碑を見ていた。

「……淮安で漂母祠を見て、宿遷で項羽の碑を見る。朱兄は、どこへ行っても似たような話になりますね」

「前世から繰り返している話だからな」

「前世」

 永華が首を傾げた。

「冗談だ」

 朱慈煥は短く言って、城門へ向かって歩き出した。

 夕暮れの宿遷の空は、淡く橙色に染まっていた。

 大運河と廃黄河が交わるこの場所で、三人はようやく次の船を探すことができる。

 済寧は、まだ北にある。だが、道は確かに続いていた。

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