前へ進む算段
足止めされて、二日が過ぎた。
北へ向かう船は、依然として一艘も出ない。漕運総督の衙門は、軍需を運ぶための船をかき集め続けている。桟橋には、行き場をなくした商人たちが日に日に増えていった。
宿の一室で、朱慈煥は三人を集めた。
「待っていても、船は出ない。いつ徴発が解けるかも分からん。自分たちで道を探す」
「探す、と言っても」陳志遠が言った。
「城門の検査も厳しくなっています。下手に動けば、かえって目をつけられます」
「だからこそ、手分けする」
朱慈煥は、卓の上に淮安のおおまかな地図を指で描いた。
「俺は衙門の周りを見てくる。なぜ船が止まったのか、いつまで続くのか。布告と役人の動きから読む。志遠は城門と桟橋だ。兵や船頭から、陸路の状況と検査の抜け道を聞き込め。永華は——」
「薬材問屋ですね」
永華が先に言った。
「常州の問屋から、この淮安の同業に繋ぎがあるはずです。商人は、商人の道を知っています」
「分かりが早いな」
「典簿ですので」
三人は、それぞれ町へ散った。
夕刻、宿に戻った三人は、それぞれの収穫を持ち寄った。
朱慈煥が最初に口を開いた。
「衙門の布告を読んできた。北方——山東の兗州、曹州のあたりで、抗清の動きがあるらしい。清軍がその鎮圧に向かう。そのための兵糧と武具を運ぶのに、運河の船を総動員している。徴発が解けるのは、早くて一月後。下手をすれば、春までかかる」
「春まで……」陳永華が顔をしかめた。
「次は志遠」
陳志遠が頷いた。
「城門は、確かに検査が厳しくなっています。よそ者の出入りを、一人ずつ調べている。ですが——荷を運ぶ隊商だけは、比較的すんなり通っていました。特に、塩を積んだ隊商は」
「塩か」
朱慈煥の目が光った。
「ええ。妙でした。これほど締めているのに、塩の荷だけは止められていない。むしろ、優先して通している様子で」
朱慈煥は、すぐに理由を察した。
「塩は、清の財源だからだ。淮塩は天下一の塩産地。ここの塩税は、清の国庫を支えている。軍需で運河を止めても、塩の流れだけは止められない。止めれば、清自身の首が絞まる」
「では」陳永華が身を乗り出した。「塩の隊商に紛れれば、城を出られる、ということですか」
「理屈はな。だが、塩運は官の管理下だ。塩引——塩の取引を許す手形がなければ、隊商には加われない。よそ者の薬材商が、ぽっと入れるものじゃない」
そこで、陳永華が静かに笑った。
「その手形のこと、調べてきました」
朱慈煥が永華を見た。
「薬材問屋の主人に聞いたのです。淮安の塩商の事情を」
永華は、帳面を開きながら続けた。
「塩の隊商は、確かに塩引がなければ動けません。ですが、塩を運ぶ隊商は、塩だけを運んでいるわけではない。道中で使う薬、傷の手当ての品、人足の食い扶持——そうした雑多な荷も、一緒に運んでいます」
「……薬を運んでいる、と」
「はい。長旅の隊商には、必ず薬の備えが要ります。特にこの時期、寒さで人足が倒れれば、隊商そのものが止まる。ですが、淮安の薬材は今、軍に優先して回されていて、隊商向けの手当てが手薄になっているそうです」
朱慈煥の口元が、わずかに緩んだ。
「つまり、隊商は薬を欲しがっている」
「そうです」永華は頷いた。「私たちは、薬材を持っている。しかも、車前草、艾葉、紫蘇、貝母——道中で使える実用の品ばかりです。これを、隊商に売り込む。ただ売るのではなく、『道中、薬の面倒を見る薬師として同行する』という形で」
陳志遠が、感心したように永華を見た。
「客として紛れるのではなく、必要とされる側になる、ということですか」
「ええ。ただ乗せてもらうだけの余所者は、足手まといとして警戒されます。ですが、隊商にとって役に立つ者なら、向こうから連れて行きたがる。薬師として雇われれば、隊商の一員として、堂々と城門を抜けられます」
朱慈煥は、しばらく永華を見つめていた。それから、静かに笑った。
「……見事だ」
「恐れ入ります」
「ただ乗りを探すのではなく、相手の弱みを商いに変える。塩引がなくとも、薬という手札で隊商に入り込む。しかも、こちらが頭を下げるのではなく、向こうに必要とさせる」
「黄先生の言葉を、思い出したのです」
永華は、少し照れたように言った。
「『道で見たものを、必ず問いに戻せ』と。検査が厳しいのに塩だけ通る——その光景を、ただ眺めるのではなく、問いに変えました。なぜ塩は通るのか。塩の隊商に、私たちの何が売れるのか、と」
朱慈煥は頷いた。余姚の黄宗羲の言葉が、確かに永華の中で根を張り始めている。
「決まりだな」
朱慈煥は地図から指を離した。
「明日、永華が薬材問屋の主人に、塩の隊商への口利きを頼む。俺たちは薬師とその供として、隊商に加わる。陸路で清河から宿遷へ抜け、そこから北を目指す」
「遠回りには、なりますね」
陳志遠が言った。
「だが、確実だ。船を待って春まで足止めされるよりは、ずっといい」
永華が帳面を閉じた。
「それに——」
「それに?」
「塩の道は、塩賊の道でもあります。隊商に紛れれば、その世界も、少しは見えるでしょう」
朱慈煥は、永華の言葉に目を細めた。
この少年は、ただ脱出の算段を立てただけではない。その先で見えるものまで、見据えている。
「……頼もしい軍師殿だ」
正月の夜は冷えたが、宿の一室には、久しぶりに前へ進む手応えがあった。




