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明末の麒麟児  作者: sawami
第6章
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一難去ってまた一難

永暦元年(一六四七年)正月 江蘇省淮安府


 高郵を抜けてからも、運河は安らかではなかった。

 宝応を過ぎ、何度かの検問をくぐり、賊の影に怯えながら、一行はようやく淮安にたどり着いた。

 船を降りた三人の足取りは、重かった。

 朱慈煥は桟橋に立っただけで、膝が小刻みに震えているのが分かった。高郵の水上戦からこちら、まともに眠れた夜は一つもない。矢の音が耳の奥にこびりついて離れず、船が揺れるたびに身構える癖がついていた。

 陳志遠も、さすがに顔に疲れが滲んでいた。普段は崩さない姿勢が、今はわずかに前のめりになっている。それでも周囲への警戒だけは解いていないのが、彼らしかった。

そして陳永華は——もはや言葉もなかった。

「……地面が、揺れています」

桟橋を歩きながら、永華が掠れた声で呟いた。

「船に乗りすぎたんだ。陸に上がっても、しばらく揺れて感じる」

 朱慈煥が答えると、永華は恨めしそうな目を向けた。

「物語では、旅というのはもっと胸の躍るものだったはずです。三蔵法師は、はるばる天竺まで歩き通したのでしょう」

「三蔵法師には、雲に乗る弟子がいた」

 朱慈煥は、げんなりした永華の横顔を見て、少しだけ笑った。

「孫悟空の觔斗雲は、ひと飛びで十万八千里だ。俺たちには、矢の穴だらけの船しかない。それも、漕がなければ進まん」

「……夢のない話ですね」

「物語は、人が読みたいように書く。船酔いも、豆だらけの足も、書いたところで誰も読まんからな」

 永華は、力なく溜め息をついた。それでも、こういう時に減らず口だけは止まらないのが、この少年だった。

「では、私が後で書き残しましょう。『旅とは、足で歩き、腹で耐えるものなり。雲に乗るは仙人の業、地を這うが人の道』——とでも」

 朱慈煥は、思わず吹き出した。

「立派な序文だ。だが、その本は売れんぞ」

「売るために書くのではありません。誤った夢を抱いて旅に出る後進への、戒めです」

「ますます売れんな」

 力ない応酬だった。だが、三人とも生きて淮安に着いた。今はそれで十分だった。

淮安は、これまで通ってきたどの町とも違っていた。

 大運河と黄河が交わるこの地は、漕運の心臓だった。運河沿いには見上げるほどの倉が建ち並び、米、塩、布、木材が山と積まれている。荷を運ぶ人夫の声、船の櫂の音、荷車の軋み——町全体が、巨大な物流の音で満ちていた。

ひときわ大きな役所の甍が見えた。

「あれが漕運総督の衙門だ」

朱慈煥は声を落として言った。

「全国の漕運を束ねる役所だ。この町は、清にとって生命線だ。北の都へ運ぶ米も塩も、すべてここを通る」

「だから、兵が多いのですね」

 陳志遠が呟いた。確かに、城門にも、倉の周りにも、運河の要所にも、清の兵の姿があった。これまでの町とは、警備の密度が違う。

それでも、町は活気に満ちていた。

 運河の西には、清江浦の造船所が広がっている。新しい船の骨組みが組まれ、槌の音が絶え間なく響いていた。北からの馬と、南からの船が出会う場所。人も物も、ここで陸と水を乗り換える。

 河下鎮の方へ目をやれば、塩商人たちの豪奢な邸宅が連なっていた。淮塩で財を成した者たちの富が、白壁と黒瓦の連なりに表れている。乱世とは思えぬほどの繁華だった。

「妙な町ですね」

永華が言った。

「戦が近いのに、こんなに栄えている」

「栄えているからこそ、清は手放さないのさ」

 朱慈煥は答えた。

「ここを押さえれば、北の都の腹が満ちる。逆に言えば、ここが乱れれば、清は飢える。だから兵を厚くしてでも、守る」

 一行は、運河から少し入った通りの宿に部屋を取った。

 その夜、三人は泥のように眠った。

 久しぶりの、揺れない床の上だった。

 だが、淮安を発とうとした朝、それは起きた。

宿を引き払い、北へ向かう船を頼みに運河へ出た一行を待っていたのは、桟橋に詰めかけた人だかりだった。

 船頭たちが、役人と何やら揉めている。荷を抱えた商人たちが、困惑した顔で立ち尽くしていた。

「どうした」

 朱慈遠が近くの男に尋ねると、男は苦々しげに吐き捨てた。

「船が、出せねえんだとよ」

「出せない?」

「お上のご命令だ。北へ向かう船は、当面すべて差し止め。漕運総督の衙門が、軍の荷を運ぶために船を集めてるのさ」

 陳志遠の眉が寄った。

 朱慈煥は、人だかりの向こうの掲示に目をやった。城門にも、新しい布告が貼り出されている。

——北方、不穏につき。

 そう読めた。

 北、つまり山東の方角で、何かが起きている。清軍がその鎮圧に向かうため、民間の船を根こそぎ徴発し、軍需を運ばせる。そして同時に、賊の内通者が紛れ込むのを警戒して、城の出入りも検査を厳しくする。

「……北で、何かが起きたな」

 朱慈煥は低く呟いた。

 榆園軍か、あるいは別の抗清の勢力か。山東の楡の林に潜む者たちが、ついに動き始めたのかもしれない。

 いずれにせよ、はっきりしていることが一つあった。

 北へ向かう船は、当分出ない。

 そして、検査の厳しくなった城門を、薬材商の札一枚で抜けられる保証も、もうない。

「朱兄」

 陳永華が、青ざめた顔で言った。

「これは……出られない、ということですか」

 朱慈煥は、桟橋に押し寄せる人だかりと、城門の兵を交互に見た。

 ようやく賊の水郷を抜け、休めると思った矢先に、今度は町から出られない。

 一難去って、また一難だ。

「……ああ」

 朱慈煥は、低く息を吐いた。

「どうやら、すぐには発てそうにないな」

 正月の冷たい風が、運河の上を吹き抜けていった。差し止められた船が、行き場をなくして桟橋に揺れている。

 朱慈煥は、その光景をしばらく見つめていた。

 頭の中では、もう次の手を探し始めていた。

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