表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
明末の麒麟児  作者: sawami
第6章
81/112

漕ぎ抜けろ

永暦元年(一六四七年)正月 江蘇省揚州府 高郵州

 鎮江で長江を渡り、瓜洲から大運河に入った一行は、揚州の城には寄らず、その郊外を抜けて北上した。

 邵伯を過ぎ、高郵へ近づくにつれ、水の景色が変わっていった。

 運河の西には、見渡す限りの湖が広がっている。高郵湖だった。冬枯れの葦が岸を埋め、湖面には鈍い鉛色の空が映っている。運河と湖を隔てるのは、細い堤防だけだ。

「広いですね」

 陳永華が湖を眺めて呟いた。

「高郵湖だ」

 朱慈煥は答えた。

「運河とこの湖の間を、堤一本で仕切っている。葦が深い。船を隠すには、これ以上ない場所だ」

「隠す、とは」

「賊だ」

 朱慈煥は声を落とした。

「揚州が落ちてから、この辺りは清の支配が届ききっていない。敗れた兵、塩を売っていた者、行き場をなくした流民——そういう者たちが武器を取り、葦の中に潜んでいる」

 船頭が低い声で口を挟んだ。

「旦那、よくご存じだ。この辺りは塩賊が出る。運河の荷を狙ってな。……だから、急ぐぜ」

 竿を握る手に、力がこもった。

 その時だった。

 葦の茂みが、不自然に揺れた。

「——伏せろ!」

 陳志遠が叫んだ。

 次の瞬間、葦の陰から数艘の小舟が滑り出てきた。櫂を漕ぐ男たちの身なりはみすぼらしいが、舟の扱いは慣れていた。底の浅い小舟を巧みに操り、葦の間を縫うように寄せてくる。手には刀、鉤縄、そして弓。

 舟の底には、筵をかけた塩の俵が積まれていた。麻袋から白い粒がこぼれ、湿った木肌にこびりついている。

 塩賊だった。

 官の専売を逃れて塩を売り捌く者たち。平時でも官憲に追われる無法者だが、乱世になって武装し、運河の荷を襲う賊に成り果てている。葦の深いこの水郷は、塩を隠すにも、舟を隠すにも、格好の巣だった。

 だが、彼らの狙いは朱慈煥たちの船だけではなかった。

 運河の前方から、別の一団が現れた。揃いの装束に、清の旗。漕運を護衛する清軍の哨戒隊だった。賊を追っていたのか、あるいは待ち伏せていたのか。

 二つの勢力が、運河の上でぶつかった。

朱慈煥たちの薬材船は、その真ん中に取り残された。

「矢が来る! 荷の陰へ!」

 朱慈煥が叫んだ。

 陳永華は反応が遅れた。湖と賊に気を取られ、一瞬、動きが止まっていた。

「永華!」

 陳志遠が永華の襟を掴み、薬材の箱の陰へ引き倒した。直後、二人がいた場所を矢がかすめ、船縁に突き立った。

「っ……!」

 永華は箱の影で身を縮めた。帳面を抱えたまま、できるだけ低く、頭を伏せる。心臓が激しく打っていた。書物の中の戦は、こんな音はしなかった。矢が空を裂く音。櫂が水を叩く音。怒号。悲鳴。すべてが、葦の匂いと一緒に押し寄せてくる。

 清軍の側から、銃声が響いた。

 火縄銃だった。白い煙が運河の上に流れ、賊の小舟の一艘が傾く。それでも賊は怯まず、鉤縄を投げて清軍の船に取りつこうとしていた。

 朱慈煥は船底に伏せながら、状況を読んだ。

 味方はいない。

 清軍に助けを求めれば、身元を調べられる。賊に与すれば、賊と見なされて斬られる。どちらにも与せず、ただこの場を抜けるしかない。

「船頭! 止まるな、漕ぎ抜けろ!」

「無茶を言うな、若いの!」

「止まれば的だ! 動いている船より、止まっている船の方が狙いやすい!」

 船頭は歯を食いしばり、竿を運河の底へ突き立てた。

 船が、賊と清軍の間を縫うように進む。

 矢が降ってきた。一本が帆に穴を開け、もう一本が薬材の箱に突き立つ。陳志遠は船縁に身を寄せ、飛んできた鉤縄を小刀で切り払った。

「朱兄、右舷!」

 賊の小舟が一艘、横に並びかけていた。

 朱慈煥は背の子母刀のうち、短い方を抜いた。賊の一人が船べりに手をかけ、乗り込もうとする。その手元へ、朱慈煥は刀の柄を叩きつけた。

短い悲鳴。賊の手が離れ、小舟が水流に流されていく。

「斬らないのですか」

 身を伏せたまま、永華が掠れた声で言った。

「斬る必要がない。離れればいい」

 朱慈煥は短く答えた。

「ここで一人斬れば、賊はこの船を本気で狙う。逃げるだけなら、向こうも深追いはしない。あちらも清軍を相手にするので手一杯だ」

 船は、なおも進んだ。

 清軍と賊の戦いは、運河の後方で激しさを増している。だが、朱慈煥たちの船は、その渦の縁をかすめるように、少しずつ前へ抜けていった。

 矢の音が、遠ざかる。

 怒号が、背後に流れていく。

 やがて、葦の茂みが途切れ、運河が開けた場所へ出た。

 船頭が大きく息を吐いた。

「……抜けた」

 船は、ひどい有様だった。

帆には矢の穴がいくつも開き、船縁には鉤縄の傷と矢が突き立っている。薬材の箱の一つは割れ、中の艾葉が水に濡れて散らばっていた。だが、沈んではいない。進んでいる。

 陳永華が、ゆっくりと箱の陰から身を起こした。

 顔は青ざめ、抱えた帳面の角が、握りしめた手の形に歪んでいた。

「……生きてますね」

「生きてるな」

 朱慈煥は短く答えた。

 陳志遠は、なおも周囲を警戒していたが、賊が追ってこないのを確かめると、ようやく肩の力を抜いた。

「永華殿、無事ですか」

「無事です。……帳面も無事です」

「そこは帳面なのですね」

「典簿ですので」

 掠れた声だったが、いつもの軽口だった。

 朱慈煥は、後方の運河を振り返った。

 葦の向こうで、まだ清軍と賊の戦いが続いている。煙が上がり、銃声が断続的に聞こえてくる。誰が勝つのかは分からない。だが、どちらが勝っても、この水郷の不穏さが消えることはないのだろう。

——揚州が落ちて、まだ二年も経っていない。

 この辺りはまだ、清の支配の外にある。そして北へ進めば、山東に入る。済寧にほど近い曹州のあたりには、黄河の古い流れに沿って楡の林が広がり、その奥に抗清の義軍が潜んでいると聞く。誰が呼んだか、榆園軍。葦の塩賊とは比べものにならない、数万を号する勢力だという。

 進む先は、静かになるどころか、より深い乱の只中だった。

「……済寧は、まだ遠いな」

 朱慈煥は、濡れた艾葉を拾い上げながら、低く呟いた。

 傷だらけの船は、それでも北へ向かって進んでいった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ