漕ぎ抜けろ
永暦元年(一六四七年)正月 江蘇省揚州府 高郵州
鎮江で長江を渡り、瓜洲から大運河に入った一行は、揚州の城には寄らず、その郊外を抜けて北上した。
邵伯を過ぎ、高郵へ近づくにつれ、水の景色が変わっていった。
運河の西には、見渡す限りの湖が広がっている。高郵湖だった。冬枯れの葦が岸を埋め、湖面には鈍い鉛色の空が映っている。運河と湖を隔てるのは、細い堤防だけだ。
「広いですね」
陳永華が湖を眺めて呟いた。
「高郵湖だ」
朱慈煥は答えた。
「運河とこの湖の間を、堤一本で仕切っている。葦が深い。船を隠すには、これ以上ない場所だ」
「隠す、とは」
「賊だ」
朱慈煥は声を落とした。
「揚州が落ちてから、この辺りは清の支配が届ききっていない。敗れた兵、塩を売っていた者、行き場をなくした流民——そういう者たちが武器を取り、葦の中に潜んでいる」
船頭が低い声で口を挟んだ。
「旦那、よくご存じだ。この辺りは塩賊が出る。運河の荷を狙ってな。……だから、急ぐぜ」
竿を握る手に、力がこもった。
その時だった。
葦の茂みが、不自然に揺れた。
「——伏せろ!」
陳志遠が叫んだ。
次の瞬間、葦の陰から数艘の小舟が滑り出てきた。櫂を漕ぐ男たちの身なりはみすぼらしいが、舟の扱いは慣れていた。底の浅い小舟を巧みに操り、葦の間を縫うように寄せてくる。手には刀、鉤縄、そして弓。
舟の底には、筵をかけた塩の俵が積まれていた。麻袋から白い粒がこぼれ、湿った木肌にこびりついている。
塩賊だった。
官の専売を逃れて塩を売り捌く者たち。平時でも官憲に追われる無法者だが、乱世になって武装し、運河の荷を襲う賊に成り果てている。葦の深いこの水郷は、塩を隠すにも、舟を隠すにも、格好の巣だった。
だが、彼らの狙いは朱慈煥たちの船だけではなかった。
運河の前方から、別の一団が現れた。揃いの装束に、清の旗。漕運を護衛する清軍の哨戒隊だった。賊を追っていたのか、あるいは待ち伏せていたのか。
二つの勢力が、運河の上でぶつかった。
朱慈煥たちの薬材船は、その真ん中に取り残された。
「矢が来る! 荷の陰へ!」
朱慈煥が叫んだ。
陳永華は反応が遅れた。湖と賊に気を取られ、一瞬、動きが止まっていた。
「永華!」
陳志遠が永華の襟を掴み、薬材の箱の陰へ引き倒した。直後、二人がいた場所を矢がかすめ、船縁に突き立った。
「っ……!」
永華は箱の影で身を縮めた。帳面を抱えたまま、できるだけ低く、頭を伏せる。心臓が激しく打っていた。書物の中の戦は、こんな音はしなかった。矢が空を裂く音。櫂が水を叩く音。怒号。悲鳴。すべてが、葦の匂いと一緒に押し寄せてくる。
清軍の側から、銃声が響いた。
火縄銃だった。白い煙が運河の上に流れ、賊の小舟の一艘が傾く。それでも賊は怯まず、鉤縄を投げて清軍の船に取りつこうとしていた。
朱慈煥は船底に伏せながら、状況を読んだ。
味方はいない。
清軍に助けを求めれば、身元を調べられる。賊に与すれば、賊と見なされて斬られる。どちらにも与せず、ただこの場を抜けるしかない。
「船頭! 止まるな、漕ぎ抜けろ!」
「無茶を言うな、若いの!」
「止まれば的だ! 動いている船より、止まっている船の方が狙いやすい!」
船頭は歯を食いしばり、竿を運河の底へ突き立てた。
船が、賊と清軍の間を縫うように進む。
矢が降ってきた。一本が帆に穴を開け、もう一本が薬材の箱に突き立つ。陳志遠は船縁に身を寄せ、飛んできた鉤縄を小刀で切り払った。
「朱兄、右舷!」
賊の小舟が一艘、横に並びかけていた。
朱慈煥は背の子母刀のうち、短い方を抜いた。賊の一人が船べりに手をかけ、乗り込もうとする。その手元へ、朱慈煥は刀の柄を叩きつけた。
短い悲鳴。賊の手が離れ、小舟が水流に流されていく。
「斬らないのですか」
身を伏せたまま、永華が掠れた声で言った。
「斬る必要がない。離れればいい」
朱慈煥は短く答えた。
「ここで一人斬れば、賊はこの船を本気で狙う。逃げるだけなら、向こうも深追いはしない。あちらも清軍を相手にするので手一杯だ」
船は、なおも進んだ。
清軍と賊の戦いは、運河の後方で激しさを増している。だが、朱慈煥たちの船は、その渦の縁をかすめるように、少しずつ前へ抜けていった。
矢の音が、遠ざかる。
怒号が、背後に流れていく。
やがて、葦の茂みが途切れ、運河が開けた場所へ出た。
船頭が大きく息を吐いた。
「……抜けた」
船は、ひどい有様だった。
帆には矢の穴がいくつも開き、船縁には鉤縄の傷と矢が突き立っている。薬材の箱の一つは割れ、中の艾葉が水に濡れて散らばっていた。だが、沈んではいない。進んでいる。
陳永華が、ゆっくりと箱の陰から身を起こした。
顔は青ざめ、抱えた帳面の角が、握りしめた手の形に歪んでいた。
「……生きてますね」
「生きてるな」
朱慈煥は短く答えた。
陳志遠は、なおも周囲を警戒していたが、賊が追ってこないのを確かめると、ようやく肩の力を抜いた。
「永華殿、無事ですか」
「無事です。……帳面も無事です」
「そこは帳面なのですね」
「典簿ですので」
掠れた声だったが、いつもの軽口だった。
朱慈煥は、後方の運河を振り返った。
葦の向こうで、まだ清軍と賊の戦いが続いている。煙が上がり、銃声が断続的に聞こえてくる。誰が勝つのかは分からない。だが、どちらが勝っても、この水郷の不穏さが消えることはないのだろう。
——揚州が落ちて、まだ二年も経っていない。
この辺りはまだ、清の支配の外にある。そして北へ進めば、山東に入る。済寧にほど近い曹州のあたりには、黄河の古い流れに沿って楡の林が広がり、その奥に抗清の義軍が潜んでいると聞く。誰が呼んだか、榆園軍。葦の塩賊とは比べものにならない、数万を号する勢力だという。
進む先は、静かになるどころか、より深い乱の只中だった。
「……済寧は、まだ遠いな」
朱慈煥は、濡れた艾葉を拾い上げながら、低く呟いた。
傷だらけの船は、それでも北へ向かって進んでいった。




