不穏な道
時々前のエピソード内容を話を違和感ないように編集しているのでよかったら見返してみてください。
隆武二年(一六四六年)十二月 江蘇省蘇州府
史徳威と別れた後、朱慈煥たちは薬舗の片隅でしばらく動かなかった。
薬材の匂いが満ちる中、朱慈煥は手の中の紙片を見つめていた。そこには常州の薬材問屋の名が、短く記されている。
陳志遠が戸口に立ち、外の通りを確認している。陳永華は帳面を閉じ、朱慈煥の手元をちらりと見た。
「常州ですか」
「ああ」
「済寧へ向かうには、結局そちらへ抜けるのが早いのでしょうね」
朱慈煥は頷いた。
蘇州から北へ向かうなら、無錫、常州を経て鎮江へ出る。そこから長江を越え、江北へ入る。揚州の近くを通ることになるが、城そのものに寄るつもりはなかった。
今、揚州へ行けば、史可法の名に引き寄せられる。
それは、済寧へ向かう目的を曇らせる。
「揚州には寄らない」
朱慈煥が言うと、陳志遠が静かにこちらを見た。
「よろしいのですか」
「今は、史閣部を追う時ではない。済寧へ行く」
陳永華は少しだけ目を伏せた。
「顔を知っている者を見捨てない、でしたね」
「そう言った」
「なら、急ぐべきでしょう。言葉にした以上、遅れれば自分の首を絞めます」
以前なら、もっと刺すような言い方になっていただろう。だが今の陳永華の声には、皮肉というより確認に近い響きがあった。
旅の中で、彼もずいぶん変わった。
朱慈煥は紙片を懐にしまった。
「出立の支度をしよう」
蘇州に長居はしなかった。 美しい町だった。水路、石橋、白壁、黒瓦、絹商いの看板。どれも江南の富を感じさせた。だが、橋のそばに立つ降清兵と新しい布告が、その美しさの中に細い棘のように刺さっている。
朱慈煥たちは薬材の荷に混じり、蘇州を出た。
道は水路と陸路を交互に進んだ。無錫のあたりでは、太湖の水気を含んだ風が冷たく、岸辺には米俵と薬材の箱が積まれていた。水は多く、船も多い。だが、どの船も以前より荷を低く積み、人目を避けるように進んでいる。
検問では、薬材商の札と帳面が役に立った。
陳志遠は荷を担ぐのにも、船から岸へ飛び移るのにも慣れていた。足場の悪い桟橋でも姿勢を崩さず、周囲を警戒する余裕さえある。
一方で、陳永華は明らかに一番苦戦していた。
帳面を抱え、薬材の小箱を運び、船を降りてはまた乗る。そのたびに息を整えようとするのだが、顔には疲れが出ている。
「大丈夫か」
朱慈煥が声をかけると、陳永華は少しだけ背筋を伸ばした。
「大丈夫です。まだ倒れていません」
「倒れてからでは遅い」
「では、倒れる前に休みます」
そう言って、陳永華は近くの荷箱に腰を下ろした。
陳志遠が小さく笑った。
「永華殿も、だいぶ旅慣れてきましたね」
「旅慣れたのではありません。諦めがついただけです」
そう返しながらも、陳永華は荷の縄が緩んでいるのを見つけると、黙って結び直した。
体はついてきていない。
だが、最初の時に比べると体力は増えた感じがした。
常州へ近づくにつれ、道の空気は少しずつ変わっていった。人の流れはある。商人もいる。だが、旅人たちは声を落とし、見知らぬ相手と目を合わせない。
ある水駅では、荷を待つ商人が三日も足止めされていた。別の宿では、鎮江へ向かった荷が予定の日を過ぎても戻らないという話を聞いた。
誰もはっきりとは言わない。
ただ、皆が同じように口を濁した。
近頃、道がよくない。
夜は進まない方がいい。
少人数なら、荷を軽く見せた方がいい。
そういう言葉だけが、薄い粥の湯気の中で交わされていた。
常州に入ったのは、その二日後だった。
蘇州ほど華やかではないが、常州もまた水運の町だった。水路に沿って倉が並び、薬材、米、布、塩が行き交っている。清の布告はここにもあり、城門には兵が立っていた。
朱慈煥たちは、史徳威から渡された紙片を頼りに薬材問屋を訪ねた。
問屋の主人は、痩せた中年の男だった。朱慈煥が紙片を差し出すと、主人はまず無言でそれを眺めた。次に朱慈煥たちを見て、最後にもう一度紙片を見た。
「この名を、どこで」
「蘇州で、道をつけていただきました」
主人はそれ以上聞かなかった。
聞かないことにした、という顔だった。
「……北へ行きたいのだな」
「はい。済寧へ」
「遠いな」
「承知しています」
主人は帳場の奥へ入り、古い帳面をめくった。
「鎮江へ向かう荷なら、明日の朝に出る。薬材の荷だ。お前たちの身分にも合う」
「助かります」
「ただ」
主人はそこで声を落とした。
「丹陽へ抜ける道は、近頃落ち着かん。荷はまとまって動け。夜は進むな。知らぬ者を簡単に近づけるな」
「分かりました」
主人は紙片を返さなかった。代わりに、それを火鉢の縁へ近づけ、端から燃やした。紙はすぐに黒く丸まり、灰になった。
「ここへ来た証は残さない」
主人はそう言った。
「明日の朝、裏の船着き場へ来い。遅れれば置いていく」
「承知しました」
問屋を出ると、夕方の冷たい風が水路から吹き上げてきた。
陳志遠は周囲を見回し、陳永華は少しだけ肩をすくめた。
「ずいぶん念入りですね」
「念入りなくらいでちょうどいい」
朱慈煥は答えた。
済寧へ向かう道は、確かに一つ増えた。
だが、進みやすくなったわけではない。
次は鎮江へ向かう。
その前に、常州で一晩を越さなければならなかった。




