生かした責任
隆武二年(一六四六年)十二月 江蘇省蘇州府
薬舗の奥の部屋は、店先よりもさらに薬の匂いが濃かった。
乾いた草根、砕いた貝殻、陳皮、甘草。壁際には小さな棚が並び、薬包に使う紙束が積まれている。外の通りを行く人の声は、厚い木戸に遮られて少し遠く聞こえた。
史徳威は笠を外し、朱慈煥を正面から見た。
若い。
だが、その目は若者のものではなかった。疲れと怒りと迷いが、刃のように奥へ沈んでいる。史可法の義子。あの手紙を受け取り、史可法へ取り次いだ男。
陳志遠は戸口の近くに立った。陳永華は朱慈煥の少し後ろに控え、帳面を抱えたまま黙っている。
「お前が、あの文を書いたのか」
史徳威が低く問うた。
「はい」
「なぜだ」
問いは短かった。
朱慈煥はすぐには答えなかった。言い訳を探したのではない。どこまで正直に言うべきかを、測っていた。
だが、ここで綺麗な言葉を並べても意味はない。
「史閣部に、生きていてほしかったからです」
「民を救うためか」
史徳威の声には棘があった。
朱慈煥は静かに首を振った。
「それだけではありません」
陳永華がわずかに顔を上げた。
「私は、史閣部を私の盾にしようとしました」
部屋の空気が止まった。
史徳威の目が鋭くなる。
「父を、己の盾にするつもりだったと言うのか」
「はい」
朱慈煥は逃げずに答えた。
「私は追われる身です。いずれ自分の血筋が露見した時、誰かの庇護が要る。史閣部ほどの名と信を持つ方が生きていれば、私の生き残る可能性は上がる。そう考えました」
史徳威の手が、膝の上で強く握られた。
「……お前は」
怒鳴り声にはならなかった。
それが、かえって重かった。
「お前の一通で、父は死ねなくなった。世は父を降った忠臣と呼ぶ。父は揚州を残した。だがその代わりに、父の名は泥を被った」
「分かっています」
「分かっている?」
史徳威は低く笑った。
「分かっている者の顔には見えぬ」
「分かりきれるとは思っていません」
朱慈煥は答えた。
「私には、史閣部が背負ったものも、あなたが背負ったものも、本当には分かりません。ただ、私が文を書いたことが、その重さの一部になったことは分かっています」
史徳威はしばらく黙っていた。
外では薬研の音がまた小さく鳴り始めている。店先の日常は戻っているのに、この奥の部屋だけは別の時間に取り残されたようだった。
「ならば、責を取っていただきたい」
史徳威が言った。
「父を生かしたなら、その意味を作っていただきたい。明の皇族であるなら、明の再興に力を尽くしていただきたい。そうでなければ、父は何のために降ったのです」
朱慈煥は、史徳威の言葉を受け止めた。
明の再興。
重い言葉だった。
あまりにも大きすぎる言葉だった。
「私は、明を再興すると約束はできません」
史徳威の顔が険しくなる。
「では父は何のために——」
「少なくとも、揚州の民を残すためです」
朱慈煥は遮らず、しかし静かに言葉を重ねた。
「そして、私が生き延びるためでもありました。そのことは否定しません」
「ならば、なおさら立っていただきたい。父の名を利用したのなら、その名を報わせていただきたい」
「立てば死にます」
朱慈煥は即答した。
史徳威が言葉を止める。
「今の私には兵も地盤もありません。名を掲げれば、清は私を探し出すでしょう。明の遺臣も、私を都合よく担ごうとする。そうなれば私は、旗印として使い潰されるだけです」
「皇族が命を惜しむのですか」
「惜しみます」
朱慈煥は迷わなかった。
「命を惜しまない皇族が多すぎたから、国はここまで来たのではありませんか」
その言葉に、史徳威の眉が動いた。
陳志遠がわずかに息を呑む。陳永華は黙ったまま、朱慈煥の背を見ていた。
「私は大義のために死ぬ気はありません。死ねば、そこで終わる。生きていれば、まだ次の手が打てる」
「では、今は何をしておられる」
史徳威の声には苛立ちが残っていた。
「薬材商の真似事か。江南の水路をふらふらと渡り歩き、いつか天下が勝手に変わるのを待つおつもりか」
そこで陳永華が口を開いた。
「私たちは、済寧へ向かっています」
史徳威が視線を移す。
「済寧?」
「はい。朱兄がかつて世話になった郷紳一家がいます。清の支配が進む中で、その安否を確かめるためです」
史徳威は一瞬、理解できないという顔をした。
「天下が崩れている時に、一家の安否か」
陳永華は答えなかった。
朱慈煥が代わりに言った。
「天下という言葉は大きすぎます」
史徳威が朱慈煥を見る。
「大きすぎる言葉は、人の顔を隠します。私はまず、顔を知っている者を見捨てないところから始めたい」
「それが明の再興に繋がると?」
「分かりません」
朱慈煥は正直に答えた。
「ですが、私はまだこの国を知らなすぎる。清に従った者、従えぬ者、従うふりをする者。商人、兵、郷紳、難民。誰が残り、誰が動き、誰が耐えているのか。それを見ずに、再興など語れません」
史徳威は黙っていた。
朱慈煥は続けた。
「史徳威殿。私に明の再興を求めるなら、まず私が済寧まで生きて辿り着けるよう力を貸してください」
「私に、お前の旅の手助けをしろと?」
「はい」
「父を盾にしようとしたお前が、今度は私を道案内にするのか」
「そうです」
あまりに正直な返答に、史徳威は言葉を失った。
陳永華が小さく目を伏せる。陳志遠は、少しだけ困ったような顔をした。
朱慈煥は頭を下げた。
「ただし、利用するだけで終わらせるつもりはありません。史閣部の名が汚れたまま終わることを、私も望みません。私が生き延びた先で、その名を別の形で報わせる道を探します」
「別の形、か」
「はい。殉死の忠臣ではなく、揚州の民を残した者として」
史徳威の顔がわずかに歪んだ。
それは怒りか、痛みか、判じがたかった。
「世が、それを認めると思うか」
「すぐには無理でしょう」
「ならば」
「だから生きるのです」
朱慈煥は言った。
「人の名は、一日では変わりません。十年、二十年かかるかもしれない。ならば、その間に死ぬわけにはいきません」
長い沈黙が落ちた。
史徳威は朱慈煥を見ていた。
皇族らしくない小僧だった。名分を振りかざさない。美しい忠義も語らない。自分の保身を隠さず、命を惜しむと言い切る。
だが、逃げるだけの目でもなかった。
「……私はまだ、お前を殿下とは呼ばぬ」
史徳威が言った。
「それで構いません」
「父を救った者としても見ぬ。父を利用した者として見る」
「それも構いません」
「だが」
史徳威はゆっくりと息を吐いた。
「嘘をつかぬところだけは、多少ましだ」
陳永華がわずかに眉を上げた。褒め言葉なのかどうか、判断に迷った顔だった。
史徳威は棚の奥から、小さな紙片を取り出した。そこに筆で数文字を書きつける。
「蘇州から北へ行くなら、無錫、常州を経て、長江筋へ出る道がある。だが今は検問が多い。薬材商として行くなら、常州の薬材問屋を頼れ」
紙片を朱慈煥へ差し出す。
「その名を出せ。私の名は出すな」
「ありがとうございます」
「礼は要らぬ」
史徳威は冷たく言った。
「私はまだ、お前を信じたわけではない。ただ、父の選択が無意味で終わるのを見たくないだけだ」
朱慈煥は紙片を受け取った。
「十分です」
史徳威は笠を取り、再び深くかぶった。
「済寧へ行け。そこで何を見るか、見てこい。だが忘れるな。お前の文で、父は死ねなかった」
「忘れません」
「なら、生きろ」
史徳威は背を向けた。
「死んだら、父の汚名だけが残る」
それだけ言い残し、彼は奥の戸から静かに出て行った。
しばらく、誰も口を開かなかった。
陳永華がようやく息を吐く。
「……怒らせましたね」
「そうだな」
「でも、助けてくれました」
「それも、そうだな」
朱慈煥は手の中の紙片を見た。
常州の薬材問屋の名が、滲まないよう丁寧に書かれている。怒りを抱えたまま、それでも道を繋ぐ字だった。
史可法を生かした責任。
その重さは、軽くならない。
だが今は、その重さを抱えたまま進むしかなかった。
朱慈煥は紙片を懐にしまった。
済寧はまだ遠い。
けれど、道は一つ増えた。




