史公子
隆武二年(一六四六年)十二月 江蘇省蘇州府
蘇州に着いたのは、冬の雨が細く降る午後だった。
水路が町の内側を縫うように走り、その上にいくつもの石橋が架かっている。白い壁、黒い瓦、川面に揺れる家々の影。橋のたもとでは行商人が籠を下ろし、小舟の船頭が竿で水底を突いていた。
蘇州は、まだ美しかった。
絹商いの店先には布が畳まれ、薬舗の軒には乾いた草根が吊るされている。書肆の戸口からは紙と墨の匂いが漏れ、遠くには庭園の塀が見えた。奇石を置き、水を引き、木を配する江南の富の形である。
だが、その美しさの下には、薄い沈黙があった。
大声で明を語る者はいない。清を称える声も、わざとらしいほど少ない。ただ皆、声を低くして商いを続けている。橋のそばには清の布告が貼られ、降清兵が通行人の髪と荷を見ていた。
朱慈煥は荷船から降り、薬材の箱に手をかけた。
麦冬、貝母、艾葉、紫蘇、石決明、海藻、牡蠣殻。
薬材の名が並ぶ帳面は、今の三人の身分そのものだった。
荷の主に連れられ、三人は蘇州城内の薬舗へ向かった。店は大きくはなかったが、奥行きがあり、棚には薬材の箱が隙間なく並んでいた。店先には乾いた陳皮と甘草の匂いが漂い、奥からは薬研で何かを挽く音が聞こえてくる。
朱慈煥は荷を下ろしながら、揚州から来た兵の言葉を思い返していた。
史可法は生きている。
それはすでに知っていた。
だが、生き残った後に何を背負わされたのかまでは知らなかった。
あの時、朱慈煥は史可法を助けようとした。いや、正確には違う。史可法を生かそうとしたのは、揚州の惨劇を避けるためだけではない。史可法という名のある忠臣が生きていれば、いつか自分が皇族として追い詰められた時、盾になり得る。そう考えた。
保身ではある。
その自覚はあった。
だからこそ、今になって胸の奥が重い。
自分の生存率を上げるために生かした男は、忠臣の名を傷つけて生きている。そして、その義子は江南を転々としながら、父の降伏を誇るべきか恥じるべきか分からずにいるという。
朱慈煥は荷札を整えながら、薬舗の主人にさりげなく尋ねた。
「揚州から来た方が、この店に薬を求めに来ることはありますか」
主人は手を止めなかった。
「揚州に限らず、江北から来る者は多い」
「傷薬を求める武人も?」
主人はそこでようやく朱慈煥を見た。
「若いの。蘇州で余計な名を探すものではない」
朱慈煥は頭を下げた。
「失礼しました」
「ただ」
主人は声を落とした。
「揚州の名を口にする客はいる。史閣部の名を、酒の勢いで出す者もいる。だが、それを聞いたことにする者はいない。ここでは、聞かぬことも商いのうちだ」
それ以上は聞けなかった。
朱慈煥は店内へ視線を戻した。
薬舗には客が多かった。咳の薬を求める老人。熱を出した子どものために来た女。足を痛めた人足。戦が遠くにあるようでいて、傷や病は町の中へ静かに入り込んでいる。
その中に、笠を深くかぶった若い男が入ってきた。
歳は二十代半ばほどか。旅装だが、身のこなしが商人ではない。腰の刀は目立たぬよう布で覆われているが、歩き方に武人の癖があった。
陳志遠がわずかに目を細めた。
薬舗の主人は男を見ると、声を落とした。
「史公子、奥へ」
その呼び方に、朱慈煥の手が止まった。
揚州から来た兵の言葉が蘇る。
――もし蘇州へ行くなら、会うことがあるかもしれん。
若い男もまた、朱慈煥の反応を見逃さなかった。
笠の下の目が、鋭くこちらを向く。
「今、何に反応した」
店の空気が、わずかに冷えた。
薬舗の主人は困った顔をしたが、口を挟まなかった。こういう客には慣れているのだろう。
「いえ」
朱慈煥は短く答えた。
「珍しい呼ばれ方だと思っただけです」
男はしばらく朱慈煥を見ていた。だが、それ以上は問い詰めなかった。笠を目深に直し、奥の部屋へ向かおうとする。
その背に、朱慈煥は静かに声をかけた。
「昔、大きな河にいる龍へ、文を届けてもらったことがあります」
男の足が、止まった。
ゆっくりと振り返る。その目から、先ほどまでの気だるさが消えていた。
「……その文に、何を添えた」
問いは短かった。
朱慈煥も短く答えた。
「血で押した、皇族の印を」
沈黙が落ちた。
笠の下の男は、しばらく朱慈煥を見ていた。その視線には驚きと警戒、そして長く探していた答えを前にしたような硬さがあった。
「お前が」
男は低く言った。
「あの時の、小坊主か」
「今は薬材商の小僧です」
朱慈煥がそう返すと、男は笑わなかった。
代わりに、薬舗の主人へ短く告げた。
「奥を借りる」
主人は黙って頷いた。
男は笠を少し上げた。若いが、目の奥に疲れが深い。背筋は伸びているのに、どこか見えない荷を背負っているようだった。
「史徳威だ」
名乗りは簡潔だった。
陳永華がわずかに息を呑む。陳志遠の手が腰のあたりで止まった。
朱慈煥は静かに頭を下げた。
「お会いできるとは思いませんでした」
「こちらは、会わねばならぬと思っていた」
史徳威はそう言い、奥の部屋へ視線を向けた。
「来い。ここでは話せぬ」




