表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
明末の麒麟児  作者: sawami
第6章
78/112

史公子

隆武二年(一六四六年)十二月 江蘇省蘇州府


 蘇州に着いたのは、冬の雨が細く降る午後だった。

 水路が町の内側を縫うように走り、その上にいくつもの石橋が架かっている。白い壁、黒い瓦、川面に揺れる家々の影。橋のたもとでは行商人が籠を下ろし、小舟の船頭が竿で水底を突いていた。

 蘇州は、まだ美しかった。

 絹商いの店先には布が畳まれ、薬舗の軒には乾いた草根が吊るされている。書肆の戸口からは紙と墨の匂いが漏れ、遠くには庭園の塀が見えた。奇石を置き、水を引き、木を配する江南の富の形である。

 だが、その美しさの下には、薄い沈黙があった。

 大声で明を語る者はいない。清を称える声も、わざとらしいほど少ない。ただ皆、声を低くして商いを続けている。橋のそばには清の布告が貼られ、降清兵が通行人の髪と荷を見ていた。

 朱慈煥は荷船から降り、薬材の箱に手をかけた。

 麦冬、貝母、艾葉、紫蘇、石決明、海藻、牡蠣殻。

 薬材の名が並ぶ帳面は、今の三人の身分そのものだった。

 荷の主に連れられ、三人は蘇州城内の薬舗へ向かった。店は大きくはなかったが、奥行きがあり、棚には薬材の箱が隙間なく並んでいた。店先には乾いた陳皮と甘草の匂いが漂い、奥からは薬研で何かを挽く音が聞こえてくる。

 朱慈煥は荷を下ろしながら、揚州から来た兵の言葉を思い返していた。

 史可法は生きている。

 それはすでに知っていた。

 だが、生き残った後に何を背負わされたのかまでは知らなかった。

 あの時、朱慈煥は史可法を助けようとした。いや、正確には違う。史可法を生かそうとしたのは、揚州の惨劇を避けるためだけではない。史可法という名のある忠臣が生きていれば、いつか自分が皇族として追い詰められた時、盾になり得る。そう考えた。

 保身ではある。

 その自覚はあった。

 だからこそ、今になって胸の奥が重い。

 自分の生存率を上げるために生かした男は、忠臣の名を傷つけて生きている。そして、その義子は江南を転々としながら、父の降伏を誇るべきか恥じるべきか分からずにいるという。

 朱慈煥は荷札を整えながら、薬舗の主人にさりげなく尋ねた。

「揚州から来た方が、この店に薬を求めに来ることはありますか」

 主人は手を止めなかった。

「揚州に限らず、江北から来る者は多い」

「傷薬を求める武人も?」

 主人はそこでようやく朱慈煥を見た。

「若いの。蘇州で余計な名を探すものではない」

 朱慈煥は頭を下げた。

「失礼しました」

「ただ」

 主人は声を落とした。

「揚州の名を口にする客はいる。史閣部の名を、酒の勢いで出す者もいる。だが、それを聞いたことにする者はいない。ここでは、聞かぬことも商いのうちだ」

 それ以上は聞けなかった。

 朱慈煥は店内へ視線を戻した。

 薬舗には客が多かった。咳の薬を求める老人。熱を出した子どものために来た女。足を痛めた人足。戦が遠くにあるようでいて、傷や病は町の中へ静かに入り込んでいる。

 その中に、笠を深くかぶった若い男が入ってきた。

 歳は二十代半ばほどか。旅装だが、身のこなしが商人ではない。腰の刀は目立たぬよう布で覆われているが、歩き方に武人の癖があった。

 陳志遠がわずかに目を細めた。

 薬舗の主人は男を見ると、声を落とした。

「史公子、奥へ」

 その呼び方に、朱慈煥の手が止まった。

 揚州から来た兵の言葉が蘇る。

――もし蘇州へ行くなら、会うことがあるかもしれん。

 若い男もまた、朱慈煥の反応を見逃さなかった。

 笠の下の目が、鋭くこちらを向く。

「今、何に反応した」

 店の空気が、わずかに冷えた。

 薬舗の主人は困った顔をしたが、口を挟まなかった。こういう客には慣れているのだろう。

「いえ」

 朱慈煥は短く答えた。

「珍しい呼ばれ方だと思っただけです」

 男はしばらく朱慈煥を見ていた。だが、それ以上は問い詰めなかった。笠を目深に直し、奥の部屋へ向かおうとする。

 その背に、朱慈煥は静かに声をかけた。

「昔、大きな河にいる龍へ、文を届けてもらったことがあります」

 男の足が、止まった。

 ゆっくりと振り返る。その目から、先ほどまでの気だるさが消えていた。

「……その文に、何を添えた」

 問いは短かった。

 朱慈煥も短く答えた。

「血で押した、皇族の印を」

 沈黙が落ちた。

 笠の下の男は、しばらく朱慈煥を見ていた。その視線には驚きと警戒、そして長く探していた答えを前にしたような硬さがあった。

「お前が」

 男は低く言った。

「あの時の、小坊主か」

「今は薬材商の小僧です」

 朱慈煥がそう返すと、男は笑わなかった。

代わりに、薬舗の主人へ短く告げた。

「奥を借りる」

 主人は黙って頷いた。

 男は笠を少し上げた。若いが、目の奥に疲れが深い。背筋は伸びているのに、どこか見えない荷を背負っているようだった。

「史徳威だ」

 名乗りは簡潔だった。

 陳永華がわずかに息を呑む。陳志遠の手が腰のあたりで止まった。

 朱慈煥は静かに頭を下げた。

「お会いできるとは思いませんでした」

「こちらは、会わねばならぬと思っていた」

史徳威はそう言い、奥の部屋へ視線を向けた。

「来い。ここでは話せぬ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ