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明末の麒麟児  作者: sawami
第6章
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揚州から来た兵

隆武二年(一六四六年)十二月 浙江省紹興府から蘇州への道中


 紹興を出てから、旅は再び水の上へ移った。

 荷には麦冬、貝母、艾葉、紫蘇、石決明、海藻、牡蠣殻などが積まれている。荷の主は薬材を扱う商人で、蘇州に古い取引先があるという。朱慈煥たちはその荷に紛れ、余姚の薬舗の主人から託された木札を見せて同行を許された。

 水路は町と町を結び、冬枯れの田の間を荷船が進む。低い橋をくぐるたび、船頭が竿を操り、荷の上に座った陳永華がわずかに身を屈めた。

 帳面には薬材の名と重さが並んでいた。麦冬、貝母、艾葉、紫蘇。草木と貝殻の名が、今の三人の身分を支えている。

 陳志遠は船縁に座り、橋の上、岸辺、舟溜まり、検問の旗を見ていた。用心棒という呼び方にはまだ慣れないと言っていたが、やっていることはすっかりそれだった。

 いくつかの水駅を越えた。

 渡し場には新しい布告が掛けられ、辮髪、兵糧、逃亡兵、通行札についての文言が並んでいる。兵たちの多くは漢人で、急ごしらえの清の印を身につけていた。

 彼らは清の兵であり、同時に昨日まで明の兵だった者たちでもあった。

 その日の夕刻、一行は蘇州へ向かう途中の小さな水駅に泊まった。

 水路沿いの粗末な桟橋に、荷を下ろすための広場と客舎が数軒あるだけの場所だった。だが水上の道では、こうした場所が命綱になる。船頭、商人、兵、逃げる者、戻る者。さまざまな人間が、同じ薄い粥をすすり、同じ湿った藁の匂いの中で夜を越す。

 朱慈煥たちが薬材の箱を下ろしていると、客舎の端に座っていた男がこちらを見た。

 年は三十前後だろうか。頬はこけ、髭は伸び、衣は旅塵にまみれている。だが腰に差した刀の扱いには、ただの流民にはない慣れがあった。

 陳志遠が一歩前に出る。

 男はそこで足を止め、朱慈煥を見た。

「……坊主?」

 低い声だった。

 朱慈煥は相手の顔を見つめた。すぐには思い出せなかった。記憶の中の兵士より、目元が深く落ち込み、頬も痩せている。

「覚えていないか。揚州だ。おっかあを探してるって言ってた、あの坊主だろ」

 その言葉で、朱慈煥の記憶が繋がった。

 弘光元年の正月。揚州の港。高杰の軍団再編で兵が集められていた列。そこで声をかけた、どこか気弱そうな兵士。

 史可法が揚州にいると教えてくれた男。

「……あなたは」

「名乗るほどの者じゃない。あの時も、今もな」

 男は少しだけ口元を歪めた。

「それで、母親は見つかったのか」

 朱慈煥は一瞬、返答に詰まった。

 あの時、自分は母を探していると嘘をついた。田秀英はすでにこの世を去っていた。探しても、もう会えるはずのない人だった。

「……見つかりませんでした」

「そうか」

 男はそれ以上聞かなかった。

 乱世では、見つからない者の方が多い。母であれ、子であれ、主であれ、故郷であれ。

 男は周囲を一度見回した。

「今は薬材商の小僧か。ずいぶん変わったな」

「色々ありました」

「だろうな。顔つきが前より悪くなった」

「そちらこそ、ずいぶんお疲れのようです」

「揚州からここまで来れば、誰でもこうなる」

 男は短く答えた。

 それから声を落とした。

「少し話せるか。あの文のことだ」

 朱慈煥は小さく頷き、桟橋の陰へ移った。陳志遠と陳永華もついてくる。

「あの後、お前は妙な文を俺に託したな。大きな河にいる龍へ渡してほしいと言われた、と」

 朱慈煥は黙って頷いた。

「あの文は、史徳威様へ渡した」

 朱慈煥は息を止めた。

「俺は中身を見ていない。ただ、あの坊主から預かった文だとは伝えた」

 男は当時を思い出すように、わずかに目を伏せた。

「史徳威様は最初、怪しんでおられた。だが封を見て、俺の話を聞くと、顔色を変えた。その場で文を読んで、すぐ史閣部の屋敷へ向かわれた。俺が見たのはそこまでだ」

 あの手紙は、少なくとも史徳威の手には渡り、そして史可法へ届いた。

「お前の文に何が書いてあったのか、俺は今も知らん。だが、あれから史徳威様の動きが変わった。城内の兵糧や民の数を、改めて調べ始めた」

 男の声は淡々としていた。

「世間では、史閣部が降ったと罵る者もいる。忠臣の名を汚したと。だが、あの城にいた者は知っている。あれは命乞いではなかった」

 男は一度、目を伏せた。

「城ごと死ぬ道を、拒んだのだ」

 朱慈煥は、指先が冷えるのを感じた。

 史可法が死なず、揚州が惨劇を免れる。自分はそう考えた。そうするべきだと思った。できることをした。だが、実際にその結果を聞くと、胸の奥に重いものが残った。

「史閣部は、今も揚州に?」

 史可法が降ったという話は、すでに耳にしていた。だが、その後どうなったのかまでは分からない。

男は首を振った。

「もう揚州にはいない。命はある。だが、自由はない」

 短い言葉だった。けれど、それだけで十分だった。生きている。それは知っていた。だが、今日初めて、その「生きている」という言葉の重さを知った気がした。

「史徳威様は今、江南を転々としている」

 男はさらに声を低くした。

「父が民を残したことを誇ればいいのか、降伏の名を恥じればいいのか、答えを持てずにいる。お前の文のことも覚えておられるはずだ」

「蘇州に?」

「しばらく身を寄せる先があると聞いた。詳しい場所は知らん。だが、史可法の名を本気で気にする者なら、いずれ耳に入る」

 朱慈煥は黙って頷いた。

 男は長居しなかった。腰の刀を軽く押さえ、桟橋の方へ戻ろうとする。去り際に、一度だけ振り返った。

「坊主。あの文を書いたことを、軽く考えるな」

「軽く考えたことはありません」

「ならいい」

 男は短く言った。

「人の死を止めるというのは、死んだはずの名を背負わせることでもある。史閣部にも、史徳威様にもな」

 それだけ言い残し、男は客舎の暗がりへ消えていった。

 水駅には夜の気配が下り始めていた。

 最初に口を開いたのは陳永華だった。

「……あの手紙が、揚州を変えたのですか」

「分からない」

 朱慈煥は正直に答えた。

「だが、届いていた」

「なら、無関係ではありませんね」

「そうだな」

 陳志遠は黙っていた。慰めも、責めもしなかった。ただ周囲を警戒しながら、朱慈煥のそばに立っていた。

 朱慈煥は暗い水面を見た。

 人は、手紙一通で救われるわけではない。だが、手紙一通で、誰かの名の重さが変わることはある。

 史可法は生きた。それは知っていた。だが、生き残った史可法が何を背負っているのかまでは、知らなかった。

 正しいことをしたつもりでも、残るものは必ずしも綺麗ではない。

 蘇州へ行けば、史徳威に会うかもしれない。その時、自分は何を言えばいいのだろうか。

 まだ答えはなかった。

 ただ、船は明日の朝、蘇州へ向かう。

 逃げるように進んできた道が、今度は自分の過去へ繋がろうとしていた。

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