紹興
隆武二年(一六四六年)十二月 浙江省紹興府
紹興に着いたのは、霧の残る朝だった。
余姚から続く道は、思っていたより湿っていた。荷車の轍には水が溜まり、道沿いには細い水路が何本も走っている。橋を渡り、また水路に沿って進む。北方の乾いた街道とも、福建沿岸の潮風とも違う、江南の水の匂いがあった。
紹興は、水の町だった。
石橋が多い。白壁の家並みの間を細い運河が抜け、黒瓦の屋根が冬の空の下に沈んで見える。酒を仕込む甕の匂い、湿った紙の匂い、墨の匂い、そして川泥の匂いが混じっている。商いの声はある。船も動いている。だが、寧波の港のような騒がしさはなかった。
声が、低い。
それが朱慈煥の最初の印象だった。
かつて魯王が監国を称した町である。明の旗を掲げ、清軍に対抗しようとした浙東政権の中心だった。だが今、その熱はもう町の表から消えていた。
城門のそばには、清の布告が貼られている。兵糧の隠匿を禁ずるもの、逃亡兵を匿う者を罰するもの、髪を剃らぬ者への戒め。木札は新しかった。
その下に立つ兵たちの多くは、満洲兵ではなかった。
漢人だった。
旧明の軍服を急ぎ直したような衣に、清の印をつけた者。腰の刀は使い込まれているが、旗だけが新しい。昨日まで明の兵だった者が、今日から清の兵として道を塞いでいる。
朱慈煥は、それを黙って見た。
大きな国を取るには、取った国の人間を使うのが早い。そう頭では分かっている。だが実際に見ると、あまり気分の良いものではなかった。
荷の主は、紹興城内の取引先へ荷を届けるため、三人を連れて町へ入った。
荷は無事だった。余姚からここまで何度か検問を受けたが、薬材商の札と荷の帳面は役に立った。陳永華の字は少しだけ崩され、陳志遠は荷守りとして周囲を警戒し続けた。
仕事は昼過ぎには終わった。
荷を下ろし、帳面を確認し、受け取りの木札をもらう。朱慈煥たちはそこで一度解放された。
普通なら、宿を探して休むところである。
だが朱慈煥は町の外れへ目を向けた。
会稽山が見えていた。
「少し寄り道をする」
それだけ言って、朱慈煥は歩き出した。
陳志遠は何か言いたげだったが、結局黙って後を追った。陳永華は露骨に疲れた顔をしたが、それでも帳面をしまい、肩に荷をかけ直した。
まず向かったのは、会稽山の麓だった。
古くは越の地である。越王勾践が臥薪嘗胆の故事を残した土地。秦の始皇帝が会稽山へ登り、大禹を祀ったとも伝えられる場所。大禹陵は、その治水の英雄を祀る陵として知られている。
冬の山は静かだった。
石段には落ち葉が残り、祠の屋根には薄く苔がついている。戦火の中でも、ここだけは時間が少し遅く流れているように見えた。だが、境内に人は少ない。祭る者より、避ける者の方が多い時代なのだろう。
朱慈煥は大禹の名を見上げた。
治水。
川を治め、人を生かすこと。王というものの始まりが、そこにあると語られる。ならば今の天下は、どれほど遠くまでその始まりから離れてしまったのか。
清も明も、兵を動かし、城を取り、年号を掲げる。
だが壊れた橋は直らず、荒れた水路は泥に埋まり、逃げた村人は戻らない。
大禹陵の前で、朱慈煥はしばらく黙っていた。
次に向かったのは、蘭亭だった。
王羲之が文人たちと集い、『蘭亭集序』を記した地として知られる。曲がる水に杯を流し、詩を作り、春の日を楽しんだという故事は、学問をかじった者なら知らぬ者がない。
だが、冬の蘭亭に春の華やぎはなかった。
竹は寒風に鳴り、水は細く流れている。かつて杯を浮かべた曲水も、今はただ冷たい流れだった。陳永華はさすがに興味を示し、石碑や扁額を熱心に眺めていた。疲れたと言っていた顔は、少しだけ生気を取り戻している。
朱慈煥はそれを横目で見た。
書物の人間は、名跡の前では足が軽くなるらしい。
陳志遠は周囲を警戒していた。名所であろうと、彼にとっては見通しの悪い竹林でしかない。足音、人影、風の音。すべてを確かめるように視線を動かしている。
三人はその後、町へ戻る途中で沈園の前を通った。
古い庭園である。陸游と唐婉の悲恋の地として知られるが、それは数百年前の話だ。今は紹興の庭園らしく、水と石と木がよく収まっていた。塀越しに見える木々は冬枯れていたが、配置は美しい。戦乱の町でも、庭だけは庭として残ろうとしている。
朱慈煥は足を止めた。
庭は、余裕の産物だ。
食うだけで精一杯の者は、石を置き、水を引き、木の影を楽しむことなどできない。庭があるということは、この町にまだ富と記憶が残っているということだった。
同時に、それを守るために黙った者たちもいる。
明を語らず、清を称えず、ただ戸を開け、商いを続ける者たち。
朱慈煥はそれを責める気にはなれなかった。
町へ戻る頃には、陳永華が完全に疲れ切っていた。
紹興に着いたばかりで、荷を下ろし、そのまま会稽山と蘭亭と庭園を回らされたのだ。書物で知る名所を見ることには心が動いたらしいが、足は正直だった。
陳志遠も疲れてはいたが、表には出さなかった。ただ、朱慈煥が次に別の方向へ目を向けた瞬間、さすがに低い声で止めた。
「朱兄、今日はここまでです」
朱慈煥は少しだけ残念そうにした。
だが反論はしなかった。
紹興は、まだ見足りなかった。
水路の町。越の古地。大禹の陵。王羲之の蘭亭。酒と紙と墨の匂い。魯王政権の熱が去った後、清の布告が貼られ、降清兵が門に立つ町。
古いものは残っている。
だが、その上に新しい支配が薄く、しかし確実に重ねられている。
その違和感が、紹興という町全体を覆っていた。
夕方、三人はようやく客舎へ入った。
陳永華は腰を下ろすなり、しばらく動かなくなった。陳志遠は荷を隅へ置き、扉の位置と窓の外を確かめた。朱慈煥は窓辺に立ち、細い水路を行く小舟を眺めていた。
船頭の声が、低く水面を渡っていく。
この町は破られた。
だが、死んではいない。
それが、朱慈煥の紹興への印象だった。
死んでいない町は、必ず何かを隠している。
その何かを見極めるまで、急いで通り過ぎるには惜しい場所だった。




