表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
明末の麒麟児  作者: sawami
第6章
75/112

人の沈黙の上で

隆武二年(一六四六年)十二月 —— 浙江省余姚県

 余姚に滞在していた朱慈煥たちのもとへ、福建から遅れて一つの噂が届いた。

 隆武帝が、二か月ほど前に汀州で行方知れずになったという。

 捕らわれたとも、殺されたとも、いや皇后と共に自ら命を絶ったとも言われた。話は聞く者によって少しずつ違っていた。

 ただ一つ確かなのは、福州に立ったあの小さな朝廷が、もはや形を保っていないということだった。

 その日、三人は誰もその話に触れなかった。

 朱慈煥は麦冬の束を選り分け、陳永華は帳面に数字を書き、陳志遠は黙って荷の縄を締めていた。

 いつも通りの仕事だった。

 だが、誰の手も少しだけ遅かった。

 薬舗の主人は、それに気づいていたらしい。何も言わずに麦冬の根を確かめ、乾きの甘いものを弾き、荷箱に詰め直していた。

 夕方になり、仕事が一段落した頃、主人が朱慈煥を呼んだ。

「若いの」

「はい」

「お前たち、北へ行くつもりだったな」

 朱慈煥は少し間を置いて頷いた。

「はい。紹興、できればその先へ」

「やはりな」

 主人は鼻を鳴らした。

「寧波にいた時から、ただの採薬人にしては目が落ち着きすぎていると思っていた。余姚へ来てからは、なおさらだ。薬草を見ている時より、人の話を聞いている時の方がよほど真剣な顔をしている」

 朱慈煥は答えなかった。

 否定しても仕方がない。

 主人は面倒そうに手を振った。

「勘違いするな。俺は余計なことに首を突っ込む気はない。今は誰が明で誰が清か、誰が本当の名を名乗っているのか、いちいち確かめていたら商いにならん」

「……助かります」

「助けているつもりもない」

 主人は短く言った。

「お前たちは役に立った。薬草を見る目も、帳面を書く手も、荷を守る腕も、それなりに使えた。だから、その分の道をつけてやる。それだけだ」

 その言い方が、かえって朱慈煥にはありがたかった。

 情や忠義を口にされるより、ずっと扱いやすい。

 主人は卓の上に小さな木札を置いた。

「明日の朝、紹興へ向かう荷が出る。薬材だけではない。紙、墨、古書、少しばかりの絹もある。持ち主は俺の古い取引先だ。人手が足りんらしい」

「紹介していただけるのですか」

「そう言っている」

 主人は眉をひそめた。

「ただし、面倒は起こすな。検問で捕まるな。俺の名を出して揉め事を持ち込むな。お前たちが何者だろうと、俺は知らん。知りたくもない」

「承知しました」

「だが」

 主人はそこで少しだけ声を落とした。

「道中、薬草よりも人を見る目を養え。薬を間違えれば一人を損なう。人を間違えれば、お前たち三人まとめて死ぬ」

 朱慈煥は静かに頭を下げた。

「肝に銘じます」

 主人はふん、と鼻を鳴らした。

「その返事も、若造にしては落ち着きすぎていて気に入らん」

 そこへ、帳面を抱えた陳永華と、荷の縄を持った陳志遠が戻ってきた。

「何の話ですか」

 陳永華が問う。

「明日の朝、紹興へ向かう荷に同行できることになった」

 朱慈煥が答えると、陳永華は目を瞬かせた。

「本当ですか」

「主人が紹介してくださる」

 陳志遠はすぐに深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

 主人は嫌そうに顔をしかめた。

「礼など要らん。お前たちをいつまでも置いておく方が面倒なんだ。特にそこの帳面係」

「私ですか」

「字は綺麗だが、商人の帳面にしては綺麗すぎる。検問のたびにこちらの寿命が縮む」

 陳永華は一瞬黙った。

「……今後は少し崩します」

「そうしろ。字の美しさで命を落とすな」

 朱慈煥が少しだけ笑った。

 陳永華はそれを見逃さなかった。

「朱兄も笑っている場合ではありません」

「何も言っていない」

「顔が言っています」

 主人は二人を見比べ、呆れたように息を吐いた。

「仲が良いのか悪いのか分からん連中だな」

「悪くはありません」

 陳志遠が真面目に答えた。

「そこは即答するんだな」

 陳永華がぼそりと言った。

 わずかに、空気が緩んだ。

 けれど、その下には隆武帝の消息を聞いた後の沈黙がまだ残っていた。

 夜、朱慈煥は一人で荷箱の横に座り、麦冬の束を見つめていた。

 白く細い根が、いくつも束ねられている。肺を潤し、渇きを止める薬だと『本草綱目』にはあった。

 だが、国の渇きには効かない。

 汀州で何が起きたのかは分からない。

 朱聿鍵が本当に死んだのかも、まだ確かなことは分からない。

 ただ、あの人は約束した。

 もし清軍に囚われるようなことがあっても、自分のことは何も喋らない、と。

 朱慈煥は静かに息を吐いた。

 帝位も、兵も、都も失った人が、最後に何を守ったのか。

 それを知る術はない。

 だが、少なくとも自分はまだ生きている。

 生きて、紹興へ向かう。

 済寧はまだ遠い。

 それでも、進まなければならなかった。

 翌朝、姚江には薄い霧がかかっていた。

 薬舗の主人は紹興へ向かう荷の主に三人を引き合わせると、最後に朱慈煥へ向き直った。

「若いの」

「はい」

「面倒事はごめんだ。だから、俺の名を厄介事に使うな」

「承知しました」

「だが、役には立った。そこは認めてやる」

 主人は照れ隠しのように顔を背けた。

「達者で行け。薬草を見る目だけでなく、人を見る目もな」

 朱慈煥は深く頭を下げた。

「お世話になりました」

 陳永華と陳志遠もそれに続いた。

 主人は返事の代わりに手を振っただけだった。

 三人は紹興へ向かう荷車に乗り込んだ。

 荷には薬材、紙、墨、古書、そして少しばかりの絹が積まれている。

 自分は、自分の才覚だけで生き延びているのではない。

 朱聿鍵の沈黙、鄭成功の庇護、陳志遠の忠義、陳永華の機転、そして今は、薬舗の主人の知らぬふり。

 人の沈黙と厚意の上で、生かされている。

 霧の向こうへ、車輪がゆっくりと動き出した。

 隆武帝の消息は、まだ霧の中だった。

 だが、進む道だけは、その先へ続いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ