人の沈黙の上で
隆武二年(一六四六年)十二月 —— 浙江省余姚県
余姚に滞在していた朱慈煥たちのもとへ、福建から遅れて一つの噂が届いた。
隆武帝が、二か月ほど前に汀州で行方知れずになったという。
捕らわれたとも、殺されたとも、いや皇后と共に自ら命を絶ったとも言われた。話は聞く者によって少しずつ違っていた。
ただ一つ確かなのは、福州に立ったあの小さな朝廷が、もはや形を保っていないということだった。
その日、三人は誰もその話に触れなかった。
朱慈煥は麦冬の束を選り分け、陳永華は帳面に数字を書き、陳志遠は黙って荷の縄を締めていた。
いつも通りの仕事だった。
だが、誰の手も少しだけ遅かった。
薬舗の主人は、それに気づいていたらしい。何も言わずに麦冬の根を確かめ、乾きの甘いものを弾き、荷箱に詰め直していた。
夕方になり、仕事が一段落した頃、主人が朱慈煥を呼んだ。
「若いの」
「はい」
「お前たち、北へ行くつもりだったな」
朱慈煥は少し間を置いて頷いた。
「はい。紹興、できればその先へ」
「やはりな」
主人は鼻を鳴らした。
「寧波にいた時から、ただの採薬人にしては目が落ち着きすぎていると思っていた。余姚へ来てからは、なおさらだ。薬草を見ている時より、人の話を聞いている時の方がよほど真剣な顔をしている」
朱慈煥は答えなかった。
否定しても仕方がない。
主人は面倒そうに手を振った。
「勘違いするな。俺は余計なことに首を突っ込む気はない。今は誰が明で誰が清か、誰が本当の名を名乗っているのか、いちいち確かめていたら商いにならん」
「……助かります」
「助けているつもりもない」
主人は短く言った。
「お前たちは役に立った。薬草を見る目も、帳面を書く手も、荷を守る腕も、それなりに使えた。だから、その分の道をつけてやる。それだけだ」
その言い方が、かえって朱慈煥にはありがたかった。
情や忠義を口にされるより、ずっと扱いやすい。
主人は卓の上に小さな木札を置いた。
「明日の朝、紹興へ向かう荷が出る。薬材だけではない。紙、墨、古書、少しばかりの絹もある。持ち主は俺の古い取引先だ。人手が足りんらしい」
「紹介していただけるのですか」
「そう言っている」
主人は眉をひそめた。
「ただし、面倒は起こすな。検問で捕まるな。俺の名を出して揉め事を持ち込むな。お前たちが何者だろうと、俺は知らん。知りたくもない」
「承知しました」
「だが」
主人はそこで少しだけ声を落とした。
「道中、薬草よりも人を見る目を養え。薬を間違えれば一人を損なう。人を間違えれば、お前たち三人まとめて死ぬ」
朱慈煥は静かに頭を下げた。
「肝に銘じます」
主人はふん、と鼻を鳴らした。
「その返事も、若造にしては落ち着きすぎていて気に入らん」
そこへ、帳面を抱えた陳永華と、荷の縄を持った陳志遠が戻ってきた。
「何の話ですか」
陳永華が問う。
「明日の朝、紹興へ向かう荷に同行できることになった」
朱慈煥が答えると、陳永華は目を瞬かせた。
「本当ですか」
「主人が紹介してくださる」
陳志遠はすぐに深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
主人は嫌そうに顔をしかめた。
「礼など要らん。お前たちをいつまでも置いておく方が面倒なんだ。特にそこの帳面係」
「私ですか」
「字は綺麗だが、商人の帳面にしては綺麗すぎる。検問のたびにこちらの寿命が縮む」
陳永華は一瞬黙った。
「……今後は少し崩します」
「そうしろ。字の美しさで命を落とすな」
朱慈煥が少しだけ笑った。
陳永華はそれを見逃さなかった。
「朱兄も笑っている場合ではありません」
「何も言っていない」
「顔が言っています」
主人は二人を見比べ、呆れたように息を吐いた。
「仲が良いのか悪いのか分からん連中だな」
「悪くはありません」
陳志遠が真面目に答えた。
「そこは即答するんだな」
陳永華がぼそりと言った。
わずかに、空気が緩んだ。
けれど、その下には隆武帝の消息を聞いた後の沈黙がまだ残っていた。
夜、朱慈煥は一人で荷箱の横に座り、麦冬の束を見つめていた。
白く細い根が、いくつも束ねられている。肺を潤し、渇きを止める薬だと『本草綱目』にはあった。
だが、国の渇きには効かない。
汀州で何が起きたのかは分からない。
朱聿鍵が本当に死んだのかも、まだ確かなことは分からない。
ただ、あの人は約束した。
もし清軍に囚われるようなことがあっても、自分のことは何も喋らない、と。
朱慈煥は静かに息を吐いた。
帝位も、兵も、都も失った人が、最後に何を守ったのか。
それを知る術はない。
だが、少なくとも自分はまだ生きている。
生きて、紹興へ向かう。
済寧はまだ遠い。
それでも、進まなければならなかった。
翌朝、姚江には薄い霧がかかっていた。
薬舗の主人は紹興へ向かう荷の主に三人を引き合わせると、最後に朱慈煥へ向き直った。
「若いの」
「はい」
「面倒事はごめんだ。だから、俺の名を厄介事に使うな」
「承知しました」
「だが、役には立った。そこは認めてやる」
主人は照れ隠しのように顔を背けた。
「達者で行け。薬草を見る目だけでなく、人を見る目もな」
朱慈煥は深く頭を下げた。
「お世話になりました」
陳永華と陳志遠もそれに続いた。
主人は返事の代わりに手を振っただけだった。
三人は紹興へ向かう荷車に乗り込んだ。
荷には薬材、紙、墨、古書、そして少しばかりの絹が積まれている。
自分は、自分の才覚だけで生き延びているのではない。
朱聿鍵の沈黙、鄭成功の庇護、陳志遠の忠義、陳永華の機転、そして今は、薬舗の主人の知らぬふり。
人の沈黙と厚意の上で、生かされている。
霧の向こうへ、車輪がゆっくりと動き出した。
隆武帝の消息は、まだ霧の中だった。
だが、進む道だけは、その先へ続いていた。




