表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
明末の麒麟児  作者: sawami
第6章
74/112

ささやかな抵抗

時は少し遡る。

 隆武二年(一六四六年)十月六日――福建省汀州。

 秋の山道を、清軍の一隊が進んでいた。

 列の中央には、縄をかけられた一人の男が歩かされている。衣は乱れ、顔には疲労が深く刻まれていた。だが、その背筋だけは不思議なほど曲がっていなかった。

 男の名は朱聿鍵。

 かつて唐王と呼ばれ、福州で皇帝に即位した者。年号を隆武と定め、傾ききった明をなお支えようとした男である。

 だが今、その身に帝の威儀はなかった。

 あるのは、敗者を運ぶ兵の足音と、山道に吹く冷たい風だけだった。

「聞いたか。皇后と宦官どもが、川へ身を投げたそうだ」

 列の後方で、清兵の一人が声を潜めて言った。

「ああ。曾氏とかいう皇后だろう。付き従っていた宦官も十人ほど、まとめて入水したとか」

「それで上から厳命が下ったらしい。捕らえた皇帝から決して目をそらすな、とさ」

「当然だ。捕らえた皇帝にまで死なれたら、誰の首が飛ぶか分からん」

 兵たちの声は低かったが、朱聿鍵の耳には届いていた。

 曾氏。

 その名を聞いた瞬間、胸の奥に小さな痛みが走った。

 皇后は、逃げきれぬと悟ったのだろう。あるいは、捕らわれて辱めを受けることを拒んだのかもしれない。十人ほどの宦官もまた、主に殉じたのだという。

 朱聿鍵は目を閉じた。

 泣くことはしなかった。

 泣くには、あまりにも多くのものを失いすぎていた。

 福州の宮殿。北伐を唱える臣。従うふりをする将。去っていく兵。崩れていく関。背を向けた鄭芝龍。

 そして今、皇后までもが水底へ消えた。

 ――朕は、何を守れたのだろうか。

 問いは、答えを持たなかった。

 朱聿鍵はただ、前を見た。

 兵の一人が近づき、乱暴に縄を引いた。

「歩け」

 朱聿鍵はよろめいたが、倒れなかった。

 倒れることだけは、なぜか許せなかった。

 遠く、汀州の山々が秋の色に沈んでいる。かつて勤王の兵を挙げようとして罪に問われ、長く幽閉された日々が脳裏をよぎった。あの時も、己の行いが正しかったのか分からなかった。

 ただ、できない性分だった。

 国が傾くのを見て、黙っていることができなかった。

 皇帝となってからも同じだった。

 勝てぬと知りながら、それでも旗を降ろすことができなかった。

 ふと、一人の少年の顔が浮かんだ。

 泉州で会った、崇禎帝の第三皇子を名乗る少年。

 朱慈煥。

 鼠のように生きると言った、あの奇妙な皇子。

 兵も財もなく、旗印になることを拒み、ただ天寿を全うしたいと言った。あまりにも皇族らしくない言葉だった。だが今思えば、あれは逃げではなかったのかもしれない。

 生き延びるということもまた、一つの戦いなのだ。

 朱聿鍵は薄く息を吐いた。

 あの時、彼に約束した。

 もし清軍に囚われるようなことがあっても、君のことを何も喋らない、と。

 その約束だけは、まだ手の中に残っている。

 帝位も、兵も、都も、皇后も失った。

 だが、まだ失っていないものが一つだけある。

 それは、朕の口を閉ざす自由だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ