ささやかな抵抗
時は少し遡る。
隆武二年(一六四六年)十月六日――福建省汀州。
秋の山道を、清軍の一隊が進んでいた。
列の中央には、縄をかけられた一人の男が歩かされている。衣は乱れ、顔には疲労が深く刻まれていた。だが、その背筋だけは不思議なほど曲がっていなかった。
男の名は朱聿鍵。
かつて唐王と呼ばれ、福州で皇帝に即位した者。年号を隆武と定め、傾ききった明をなお支えようとした男である。
だが今、その身に帝の威儀はなかった。
あるのは、敗者を運ぶ兵の足音と、山道に吹く冷たい風だけだった。
「聞いたか。皇后と宦官どもが、川へ身を投げたそうだ」
列の後方で、清兵の一人が声を潜めて言った。
「ああ。曾氏とかいう皇后だろう。付き従っていた宦官も十人ほど、まとめて入水したとか」
「それで上から厳命が下ったらしい。捕らえた皇帝から決して目をそらすな、とさ」
「当然だ。捕らえた皇帝にまで死なれたら、誰の首が飛ぶか分からん」
兵たちの声は低かったが、朱聿鍵の耳には届いていた。
曾氏。
その名を聞いた瞬間、胸の奥に小さな痛みが走った。
皇后は、逃げきれぬと悟ったのだろう。あるいは、捕らわれて辱めを受けることを拒んだのかもしれない。十人ほどの宦官もまた、主に殉じたのだという。
朱聿鍵は目を閉じた。
泣くことはしなかった。
泣くには、あまりにも多くのものを失いすぎていた。
福州の宮殿。北伐を唱える臣。従うふりをする将。去っていく兵。崩れていく関。背を向けた鄭芝龍。
そして今、皇后までもが水底へ消えた。
――朕は、何を守れたのだろうか。
問いは、答えを持たなかった。
朱聿鍵はただ、前を見た。
兵の一人が近づき、乱暴に縄を引いた。
「歩け」
朱聿鍵はよろめいたが、倒れなかった。
倒れることだけは、なぜか許せなかった。
遠く、汀州の山々が秋の色に沈んでいる。かつて勤王の兵を挙げようとして罪に問われ、長く幽閉された日々が脳裏をよぎった。あの時も、己の行いが正しかったのか分からなかった。
ただ、できない性分だった。
国が傾くのを見て、黙っていることができなかった。
皇帝となってからも同じだった。
勝てぬと知りながら、それでも旗を降ろすことができなかった。
ふと、一人の少年の顔が浮かんだ。
泉州で会った、崇禎帝の第三皇子を名乗る少年。
朱慈煥。
鼠のように生きると言った、あの奇妙な皇子。
兵も財もなく、旗印になることを拒み、ただ天寿を全うしたいと言った。あまりにも皇族らしくない言葉だった。だが今思えば、あれは逃げではなかったのかもしれない。
生き延びるということもまた、一つの戦いなのだ。
朱聿鍵は薄く息を吐いた。
あの時、彼に約束した。
もし清軍に囚われるようなことがあっても、君のことを何も喋らない、と。
その約束だけは、まだ手の中に残っている。
帝位も、兵も、都も、皇后も失った。
だが、まだ失っていないものが一つだけある。
それは、朕の口を閉ざす自由だった。




