余姚の黄先生
隆武二年(一六四六年)冬 —— 浙江省余姚県
余姚に着いたのは、日が西に傾き始めた頃だった。
姚江の水は冬の光を受けて鈍く光り、川沿いには荷を下ろす人夫たちの声が響いていた。寧波の港のような荒々しさはない。だが、静かというわけでもなかった。川船が行き交い、薬材や米俵、布の包みが岸へ運ばれていく。
町の向こうには、低い山が見えた。
薬舗の主人がそれを指さした。
「あれが龍泉山だ。この町の者には馴染み深い山でな。麓には龍泉寺もある」
朱慈煥はその名を聞いて、静かに頷いた。
余姚。王陽明を生み、学問の伝統が根づいた土地。江南の書物や人づての話の中で、何度も見聞きした名だった。歴史ある町は、ただ古いだけではない。川の流れ、山の影、店先の墨の匂いまでが、人を育てる土のように感じられた。
陳永華も興味深そうに辺りを見回していた。
「思っていたより、学問の町という感じがしますね」
「町を見ただけで分かるのか」
陳志遠が聞く。
「石碑と書肆の数で何となく分かる」
「便利な目だな」
「君の用心棒の目ほどではない」
そんな会話を聞き流しながら、朱慈煥は荷を下ろす手伝いをした。
その後、薬舗の主人は朱慈煥だけを連れて、麦冬を扱う取引先へ向かった。陳志遠は荷の番、陳永華は店に残って帳面を整えることになった。
取引先は、姚江から少し離れた通りにある薬材問屋だった。麦冬を扱う家らしく、奥の棚には乾かした根が白く束ねられて並んでいた。
「これは余姚のものですか」
朱慈煥が尋ねると、主人は少し感心したように見た。
「分かるのか」
「寧波で聞きました。余姚や慈渓の麦冬はよいと」
「若いのに耳が利くな」
麦冬の束を確かめ、値と量を決め、荷の一部を預ける。そうした用事を済ませて店へ戻る頃には、空は薄く暮れ始めていた。
戻ると、店の中に一人の男がいた。
年は三十をいくつか過ぎた頃だろうか。粗末な衣を着ているが、姿勢がまっすぐだった。客として薬を求めに来ているようだが、陳永華と何やら話し込んでいる。
陳永華の表情が、いつもより真剣だった。
「ですから、民が乱れるのは民が愚かだからではなく、上が民を養えなくなったからではありませんか」
男は静かに頷いた。
「その通りだ。飢えた民に礼を説いても、腹は膨れぬ」
朱慈煥は足を止めた。
ただの客ではない。
薬舗の主人が中へ入ると、男がこちらを向いた。
「黄先生、お待たせしました」
薬舗の主人が言った。
朱慈煥の心が、そこで小さく動いた。
黄先生。余姚の、黄氏。
「こちらは、寧波から連れてきた若い採薬人でしてな。薬材を見る目はなかなかです。こちらは黄先生。余姚では知らぬ者の少ない学問の方だ」
男はすぐに首を振った。
「大げさに言わないでいただきたい。ただ書を読んでいるだけの者です」
その声は静かだったが、謙遜の奥に芯があった。
朱慈煥は礼をした。
「朱文と申します」
「黄宗羲だ。字は太沖」
男がそう名乗った瞬間、朱慈煥は確信した。
黄宗羲。余姚の黄太沖。父の冤を胸に抱きながら、書物の中だけに閉じこもらぬ学者。江南で名を聞くことのあった人物が、今、目の前に立っている。
朱慈煥は表情を動かさなかった。だが、黄宗羲の目がわずかに細くなった。
「私の名に聞き覚えがあるのかな」
鋭い。
朱慈煥は一拍置いて答えた。
「余姚には著名な儒者がいると、寧波で聞きました」
「採薬人が、余姚の黄氏を気にするとは珍しい」
「薬も学問も、土地と無縁ではありませんので」
黄宗羲は少しだけ笑った。
「若いのに、よく知っておるな」
薬舗の主人は二人の間に流れる妙な空気に気づかぬまま、奥から包みを持ってきた。
「黄先生、ご注文の薬です。咳の者に使うと伺っておりましたので、麦冬と貝母を少し加えてあります」
「ありがたい。寒さで咳を患った者が多くてね」
陳永華が少し身を乗り出した。
「先生は、清に従う者をどう見ますか」
薬舗の主人がぎょっとした顔をした。
だが黄宗羲は怒らなかった。
「難しい問いだ。生きるために頭を下げる者を、私は軽々しく罵れぬ。だが、頭を下げたことを道理だと言い換える者は信用できぬ」
陳永華は黙った。瑞安の町で見た家長の姿が、脳裏に戻ったのだろう。
「では、死ぬ忠義は正しいのでしょうか」
「死ねば忠になる、というものでもない」
黄宗羲は静かに答えた。
「民が食えず、橋が壊れ、水路が荒れ、兵が勝手に奪う。そうしたものを直さずに忠義だけを唱えても、空しい言葉が残るだけだ」
陳永華の目が揺れた。
朱慈煥は黙って聞いていた。
黄宗羲の言葉は、陳永華の父・陳鼎の言葉とも、 沈雲英の言葉とも違っていた。書物を知る者の言葉でありながら、書物の中に閉じていない。
「国の病は、薬草では治りませんね」
朱慈煥が言った。
黄宗羲は朱慈煥を見た。
「そうだ。だが、病の名を知らねば、薬も選べぬ」
「ならば、まず病の名を知る旅です」
「君は、旅をしているのか」
「はい。南から」
「南から来た者は、多くが逃げてきた者だ」
「逃げた者だけが見られる景色もあります」
黄宗羲はしばらく朱慈煥を見ていた。その目は、まるで薬草の根を割って中身を確かめるようだった。
「君は、ただの採薬人ではないな」
陳志遠の肩がわずかに動いた。
朱慈煥は静かに頭を下げた。
「今は、採薬人です」
「今は、か」
黄宗羲はその言葉を拾った。だが、それ以上は聞かなかった。
「では、今はそういうことにしておこう。乱世では、聞かぬことも礼になる」
朱慈煥はもう一度頭を下げた。
「助かります」
黄宗羲は薬包を懐にしまい、店の外へ向かった。
去り際、彼は陳永華を見た。
「君の問いは悪くない。だが、問いは書物の中に閉じ込めておくな。道で見たものを、必ず問いに戻しなさい」
「……はい」
陳永華は珍しく素直に答えた。
黄宗羲は最後に朱慈煥へ視線を移した。
「いずれまた会えるとよいな。朱文殿」
「こちらこそ、黄先生」
そのまま、黄宗羲は冬の夕暮れの町へ消えていった。
しばらくして、陳永華がぽつりと言った。
「あの方は、何者ですか」
朱慈煥は店の外を見つめた。
「余姚の黄太沖。よく覚えておけ。ああいう人物の言葉は、後で必ず効いてくる」
「薬のようにですか」
「薬より厄介かもしれない」
陳永華は少し考え込み、それ以上は聞かなかった。
朱慈煥は内心で、黄宗羲の去った方角を思った。
君主のために天下があるのか。天下のために君主があるのか。
皇族として生まれた自分には、耳の痛い問いだ。
だが、明がなぜ崩れたのかを考えるなら、避けては通れない問いでもある。
余姚の冬風が、薬舗の暖簾を静かに揺らしていた。




