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明末の麒麟児  作者: sawami
第6章
73/112

余姚の黄先生

隆武二年(一六四六年)冬 —— 浙江省余姚県


 余姚に着いたのは、日が西に傾き始めた頃だった。

 姚江の水は冬の光を受けて鈍く光り、川沿いには荷を下ろす人夫たちの声が響いていた。寧波の港のような荒々しさはない。だが、静かというわけでもなかった。川船が行き交い、薬材や米俵、布の包みが岸へ運ばれていく。

 町の向こうには、低い山が見えた。

 薬舗の主人がそれを指さした。

「あれが龍泉山だ。この町の者には馴染み深い山でな。麓には龍泉寺もある」

 朱慈煥はその名を聞いて、静かに頷いた。

 余姚。王陽明を生み、学問の伝統が根づいた土地。江南の書物や人づての話の中で、何度も見聞きした名だった。歴史ある町は、ただ古いだけではない。川の流れ、山の影、店先の墨の匂いまでが、人を育てる土のように感じられた。

 陳永華も興味深そうに辺りを見回していた。

「思っていたより、学問の町という感じがしますね」

「町を見ただけで分かるのか」

 陳志遠が聞く。

「石碑と書肆の数で何となく分かる」

「便利な目だな」

「君の用心棒の目ほどではない」

 そんな会話を聞き流しながら、朱慈煥は荷を下ろす手伝いをした。

 その後、薬舗の主人は朱慈煥だけを連れて、麦冬を扱う取引先へ向かった。陳志遠は荷の番、陳永華は店に残って帳面を整えることになった。

 取引先は、姚江から少し離れた通りにある薬材問屋だった。麦冬を扱う家らしく、奥の棚には乾かした根が白く束ねられて並んでいた。

「これは余姚のものですか」

 朱慈煥が尋ねると、主人は少し感心したように見た。

「分かるのか」

「寧波で聞きました。余姚や慈渓の麦冬はよいと」

「若いのに耳が利くな」

 麦冬の束を確かめ、値と量を決め、荷の一部を預ける。そうした用事を済ませて店へ戻る頃には、空は薄く暮れ始めていた。

 戻ると、店の中に一人の男がいた。

 年は三十をいくつか過ぎた頃だろうか。粗末な衣を着ているが、姿勢がまっすぐだった。客として薬を求めに来ているようだが、陳永華と何やら話し込んでいる。

 陳永華の表情が、いつもより真剣だった。

「ですから、民が乱れるのは民が愚かだからではなく、上が民を養えなくなったからではありませんか」

 男は静かに頷いた。

「その通りだ。飢えた民に礼を説いても、腹は膨れぬ」

 朱慈煥は足を止めた。

 ただの客ではない。

 薬舗の主人が中へ入ると、男がこちらを向いた。

「黄先生、お待たせしました」

 薬舗の主人が言った。

 朱慈煥の心が、そこで小さく動いた。

 黄先生。余姚の、黄氏。

「こちらは、寧波から連れてきた若い採薬人でしてな。薬材を見る目はなかなかです。こちらは黄先生。余姚では知らぬ者の少ない学問の方だ」

男はすぐに首を振った。

「大げさに言わないでいただきたい。ただ書を読んでいるだけの者です」

 その声は静かだったが、謙遜の奥に芯があった。

 朱慈煥は礼をした。

「朱文と申します」

「黄宗羲だ。字は太沖」

 男がそう名乗った瞬間、朱慈煥は確信した。

 黄宗羲。余姚の黄太沖。父の冤を胸に抱きながら、書物の中だけに閉じこもらぬ学者。江南で名を聞くことのあった人物が、今、目の前に立っている。

 朱慈煥は表情を動かさなかった。だが、黄宗羲の目がわずかに細くなった。

「私の名に聞き覚えがあるのかな」

 鋭い。

 朱慈煥は一拍置いて答えた。

「余姚には著名な儒者がいると、寧波で聞きました」

「採薬人が、余姚の黄氏を気にするとは珍しい」

「薬も学問も、土地と無縁ではありませんので」

 黄宗羲は少しだけ笑った。

「若いのに、よく知っておるな」

薬舗の主人は二人の間に流れる妙な空気に気づかぬまま、奥から包みを持ってきた。

「黄先生、ご注文の薬です。咳の者に使うと伺っておりましたので、麦冬と貝母を少し加えてあります」

「ありがたい。寒さで咳を患った者が多くてね」

 陳永華が少し身を乗り出した。

「先生は、清に従う者をどう見ますか」

薬舗の主人がぎょっとした顔をした。

だが黄宗羲は怒らなかった。

「難しい問いだ。生きるために頭を下げる者を、私は軽々しく罵れぬ。だが、頭を下げたことを道理だと言い換える者は信用できぬ」

 陳永華は黙った。瑞安の町で見た家長の姿が、脳裏に戻ったのだろう。

「では、死ぬ忠義は正しいのでしょうか」

「死ねば忠になる、というものでもない」

黄宗羲は静かに答えた。

「民が食えず、橋が壊れ、水路が荒れ、兵が勝手に奪う。そうしたものを直さずに忠義だけを唱えても、空しい言葉が残るだけだ」

 陳永華の目が揺れた。

 朱慈煥は黙って聞いていた。

 黄宗羲の言葉は、陳永華の父・陳鼎の言葉とも、  沈雲英の言葉とも違っていた。書物を知る者の言葉でありながら、書物の中に閉じていない。

「国の病は、薬草では治りませんね」

 朱慈煥が言った。

 黄宗羲は朱慈煥を見た。

「そうだ。だが、病の名を知らねば、薬も選べぬ」

「ならば、まず病の名を知る旅です」

「君は、旅をしているのか」

「はい。南から」

「南から来た者は、多くが逃げてきた者だ」

「逃げた者だけが見られる景色もあります」

黄宗羲はしばらく朱慈煥を見ていた。その目は、まるで薬草の根を割って中身を確かめるようだった。

「君は、ただの採薬人ではないな」

 陳志遠の肩がわずかに動いた。

 朱慈煥は静かに頭を下げた。

「今は、採薬人です」

「今は、か」

 黄宗羲はその言葉を拾った。だが、それ以上は聞かなかった。

「では、今はそういうことにしておこう。乱世では、聞かぬことも礼になる」

朱慈煥はもう一度頭を下げた。

「助かります」

 黄宗羲は薬包を懐にしまい、店の外へ向かった。

去り際、彼は陳永華を見た。

「君の問いは悪くない。だが、問いは書物の中に閉じ込めておくな。道で見たものを、必ず問いに戻しなさい」

「……はい」

 陳永華は珍しく素直に答えた。

 黄宗羲は最後に朱慈煥へ視線を移した。

「いずれまた会えるとよいな。朱文殿」

「こちらこそ、黄先生」

 そのまま、黄宗羲は冬の夕暮れの町へ消えていった。

 しばらくして、陳永華がぽつりと言った。

「あの方は、何者ですか」

 朱慈煥は店の外を見つめた。

「余姚の黄太沖。よく覚えておけ。ああいう人物の言葉は、後で必ず効いてくる」

「薬のようにですか」

「薬より厄介かもしれない」

 陳永華は少し考え込み、それ以上は聞かなかった。

 朱慈煥は内心で、黄宗羲の去った方角を思った。

君主のために天下があるのか。天下のために君主があるのか。

 皇族として生まれた自分には、耳の痛い問いだ。

 だが、明がなぜ崩れたのかを考えるなら、避けては通れない問いでもある。

 余姚の冬風が、薬舗の暖簾を静かに揺らしていた。

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