余姚江を遡る
隆武二年(一六四六年)冬 —— 浙江省寧波府、余姚江
寧波を出た薬材の荷は、余姚江を遡る小舟に積まれていた。
舟は大きくない。だが、車前草、艾葉、紫蘇、海藻、石決明、少量の貝母を詰めた箱がいくつも並び、船底には乾いた草と潮の匂いが混じっていた。
薬舗の主人は、寧波では小さな店を構えていたが、余姚方面にも古い取引先があるらしい。今回は余姚近郊で麦冬を仕入れ、紹興方面へ送る荷の下準備をするのだという。
朱慈煥たちは、その荷に同行することになった。
表向き、朱慈煥は薬材の札書きと見分け役。陳永華は典簿。陳志遠は荷運び兼用心棒である。
「用心棒という言い方は、まだ少し慣れません」
船縁に座る陳志遠が、小声で呟いた。
「なら、荷守り役にするか」
朱慈煥が答える。
「それならまだ」
「用心棒より地味ですね」
帳面を抱えた陳永華が口を挟んだ。
「お前はまず、数字を間違えるな」
「間違えていません。薬草の重さと乾き具合で値を変える方が悪いのです」
陳永華は不満げに帳面を睨んだ。薬材の商いは思ったより厄介だった。同じ車前草でも、乾き方、葉の傷み、泥の混じり具合で値が違う。書物の文字とは違い、薬材は手に取るたびに状態が違った。
舟はゆっくりと川を進む。
余姚江の両岸には、冬枯れの田が広がっていた。ところどころに小さな水門があり、岸辺では人足が綱を引いて荷船を曳いている。壊れた小橋、泥に沈んだ畦道、修理されないまま傾いた堤。
ここにも、国が壊れた跡があった。
それでも、川は流れ、舟は進む。
陳志遠がふと顔を上げた。
「前方に、兵がいます」
朱慈煥の表情は変わらなかった。ただ、視線だけが動いた。
川の先、橋のたもとに簡易の柵が設けられていた。数人の兵が立ち、通る舟や荷を改めている。清軍そのものというより、降清した地方兵のようだった。着ているものは揃っていない。ただし、槍と刀は本物だ。
薬舗の主人が舌打ちした。
「また検問か」
「よくあるのですか」
陳永華が問う。
「最近は増えた。荷を調べ、通行札を調べ、時には銭をせびる。兵糧だの治安維持だの、名目はいくらでもある」
主人は小声でそう言うと、舟の底から通行札を取り出した。
「お前たち、余計なことは言うな。聞かれたことだけ答えろ」
朱慈煥は頷いた。
「分かっています」
舟が柵の近くへ寄せられた。
「止まれ!」
兵の一人が槍の柄で桟橋を叩いた。
船頭が舟を止める。薬舗の主人が通行札を差し出した。
「寧波の薬舗、余姚へ荷を運ぶところでございます」
兵は札を受け取り、面倒そうに目を通した。
「荷は何だ」
「薬材です。車前草、艾葉、紫蘇、海藻、石決明、それに少量の貝母を」
「開けろ」
主人の顔がわずかに強張った。
薬材は湿気を嫌う。雑に扱われれば、売り物にならない。だが拒めば、それだけで怪しまれる。
主人は歯を食いしばりながら、箱の蓋を開けさせた。
兵が槍の柄で薬草をかき回そうとした。
その瞬間、朱慈煥が一歩前に出た。
「お待ちください」
陳志遠の肩がわずかに動いた。陳永華も、筆を持つ手を止めた。
兵の目が朱慈煥へ向く。
「何だ、お前」
「荷の札書きを任されております。薬材は湿気と傷みに弱く、乱雑にかき混ぜますと、あとで薬として使えなくなります」
「俺に指図する気か」
兵の声が低くなる。
薬舗の主人の顔色が変わった。
朱慈煥はすぐに頭を下げた。
「滅相もございません。ただ、こちらの艾葉は灸に使うものです。湿らせれば煙が悪くなり、兵の方々が負傷された時にも役に立ちません」
「負傷?」
「はい。艾葉は灸に用い、冷えや痛みにも使われます。車前草は熱を冷まし、紫蘇は吐き気や魚毒に用います。海沿いの兵には必要になることも多いかと」
兵は少しだけ眉をひそめた。
「魚毒?」
「魚介で腹を悪くする者が多いと聞きます。紫蘇はその時に使えます」
朱慈煥は箱の中から、香りの残る紫蘇を一枚取り出し、兵に渡した。
「潰せば匂いが立ちます」
兵は疑わしげに葉を指で揉んだ。紫蘇の香りがふわりと漂った。
周囲の兵の一人が、少し身を乗り出す。
「この前、魚を食って腹を壊した奴がいたな」
「黙ってろ」
最初の兵が睨んだが、先ほどより声の刺々しさは弱くなっていた。
朱慈煥はそれ以上しゃべらなかった。黙るべきところで黙る。それも、旅で学んだ技術だった。
別の兵が、今度は朱慈煥たちの髪を見た。
「お前たち、髪が妙だな」
空気が、わずかに固まった。
陳志遠の指が、荷の陰でわずかに動く。陳永華は帳面を伏せ、顔を上げなかった。
朱慈煥は平静に答えた。
「寧波へ来る途中で切りました。まだ伸びきっておらず、見苦しくて申し訳ありません」
「どこの者だ」
「採薬人です。寧波近郊で車前草と艾葉を集め、こちらの薬舗に雇っていただきました」
薬舗の主人がすぐに合わせた。
「はい。若いですが、薬草を見る目は確かです。余姚の麦冬を扱う家へ連れて行くつもりでございます。字も書けますので、荷札に使えます」
兵は三人をじろじろと見た。
若すぎる。だが、荷の中身を説明できる。薬舗の主人も庇っている。帳面もある。髪も、完全ではないが清の支配下で見咎められない程度には切っている。
怪しい。だが、今すぐ捕らえるほどではない。
そんな判断が、兵の顔に浮かんだ。
「帳面を見せろ」
陳永華の手が一瞬止まった。
それから、何事もなかったように帳面を差し出した。
兵は頁をめくった。
薬名、束数、重さ、銭額。車前草、艾葉、紫蘇、海藻、石決明。いずれも整然と記されている。陳永華の字は、育ちの良さが隠しきれないほど端正だった。
兵の眉がわずかに動いた。
「……商人の帳面にしては、ずいぶん綺麗な字だな」
空気が、そこで止まった。
陳永華は顔を伏せたまま、何も言わない。薬舗の主人も、余計な口を挟むべきか迷っているようだった。
朱慈煥はすぐに一歩前へ出て、頭を下げた。
「その者は、もとは書塾に通っていた者です」
「書塾?」
「はい。家は貧しく、学問を続けられなくなりました。字が書けるので、今は帳面を書かせております。薬の目利きは未熟ですが、数字と字だけは使えます」
兵は陳永華を見た。
「書生崩れか」
「そのようなものです」
朱慈煥は迷いなく答えた。
陳永華の肩が、わずかに強張った。
兵は帳面をもう一度めくった。
「ふん。字が綺麗でも、商いが上手くなるわけではあるまい」
「まったくです」
朱慈煥は即座に頷いた。
「字ばかり整えて、乾き具合と重さの違いをよく間違えます。おかげで、こちらが何度も直しております」
陳永華が一瞬だけ朱慈煥を見た。
その目には、明らかに「あとで覚えていろ」と書いてあった。
兵は鼻で笑った。
「役に立つのか立たんのか、分からん小僧だな」
「字を書く手があるだけでも、ないよりはましでございます」
薬舗の主人が、そこでようやく調子を合わせた。
「このご時世、帳面を書ける若い者は貴重でして。多少生意気でも、使わねば損でございます」
兵は興味を失ったように帳面を閉じ、陳永華へ投げ返した。
「行け」
薬舗の主人が深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
舟が再び動き出した。
柵を抜け、橋を過ぎ、兵たちの姿が遠ざかる。
しばらく誰も口を開かなかった。
やがて薬舗の主人が、大きく息を吐いた。
「……寿命が縮んだぞ、若造」
「申し訳ありません」
朱慈煥は素直に頭を下げた。
「だが、助かった」
主人は箱の中の艾葉を確認しながら言った。
「槍の柄でかき回されたら、半分は売り物にならんところだった。お前、口は立つが、引き際も知っているな」
「何度か失敗していますので」
「失敗して生きているなら、大したものだ」
検問所が遠ざかってから、陳永華が低い声で言った。
「……誰が、乾き具合と重さの違いをよく間違えるのですか」
「誤魔化すには、少し欠点を足した方が自然だ」
「私の欠点である必要が?」
「一番それらしかった」
陳永華はしばらく朱慈煥を睨んでいた。
「殿下、いつか寝ている間に顔へ字を書きますよ」
「何と書くつもりだ」
「『草木を弁ずるに明らかなれど、人心を察するに暗し』と」
陳志遠が小さく吹き出した。
「長いな」
朱慈煥が真顔で言う。
「では『皇族』の二文字にしておきます」
「それだけは勘弁してくれ」
朱慈煥が即座に言うと、陳志遠はついに堪えきれず小さく笑った。
舟は余姚江を遡っていく。
清の検問を、一つ越えた。
髪を変え、役目を持ち、薬草の匂いに紛れたことで、彼らは初めて清の支配の内側を通り抜けた。
これで終わりではない。
この先も、同じような場所を何度も通ることになる。兵に見られ、問いただされ、名を偽り、役目を演じ続けることになる。
だが、通れる。
少なくとも今は、通れた。
それだけで十分だった。
余姚は、もう遠くない。




