それぞれの役目
隆武二年(一六四六年)冬 —— 浙江省寧波府
港から戻った三人は、客舎の狭い部屋で向かい合っていた。
外では、相変わらず舟山へ渡る船を求める人々の声が聞こえている。港の方角からは怒鳴り声や荷を運ぶ音が混じり、寧波の町そのものが落ち着かぬ熱に浮かされているようだった。
だが、三人の前にある問題は単純だった。
船がない。
「選択肢は二つですね」
陳永華が疲れた顔で言った。
「舟山行き以外の船が出るまで待つか、陸路で進むか」
「待てば、その分だけ目立つ」
陳志遠が低く言った。
「この町は人の出入りが多すぎます。清の目も、魯王殿下の陣営の目もある。長く留まれば、いずれ面倒に巻き込まれるでしょう」
「同感だ」
朱慈煥は卓の上に広げた粗末な地図を見下ろした。
寧波から北へ進むなら、余姚、紹興、杭州方面へ抜ける道がある。そこから嘉興、蘇州へ向かうこともできる。水路を使えれば楽だが、今は無理に港へこだわる必要はない。
「陸路にする」
朱慈煥は短く言った。
陳永華が少し意外そうに顔を上げる。
「海路の方が早いのでは」
「早いが、逃げ場がない」
朱慈煥は静かに答えた。
「俺は一度、海で海賊に襲われている。船の上では、相手が来れば逃げ場は水の中だけだ。大船ならなおさら、乗客も荷もまとめて人質になる」
「……経験者の言葉は重いですね」
「重いというより、嫌な記憶だ」
朱慈煥は淡々と言った。
「それに、これから先は清国の勢力範囲内を進むことになる。ただの旅人として歩けば怪しまれる。何か職のある者に紛れた方がいい」
陳永華は眉を上げた。
「職、ですか。何か宛があるのですか」
「薬材商だ」
朱慈煥は答えた。
陳志遠が瞬きをした。
「薬材商……ですか」
「ああ。俺は北京にいた頃、いずれ逃げることを考えて『本草綱目』を読んでいた。薬草の名、効能、産地、見分け方くらいなら多少は分かる。南京へ行く途中でも、その知識には何度か助けられた」
陳志遠は明らかに驚いた顔をした。
「殿下は、そのようなものまで読んでおられたのですか」
「必要だったからな」
「普通、皇子が読むものではないと思いますが」
「普通の皇子は、今ごろ逃亡先で薬材商に紛れようとはしない」
朱慈煥がそう言うと、陳永華が小さく笑った。
「それは確かに」
だが、陳永華の目には感心の色も混じっていた。皇族でありながら、薬学、仏典、兵法、歴史、地理にまで手を伸ばしている。目の前の少年は、ただ未来を知る怪しい人物ではなく、実際に生き延びるための準備を積んできた者なのだ。
「では、薬材商に雇われるとして」
陳永華は少し身を乗り出した。
「殿下が薬材の見分け役、あるいは札書き。私は典簿として帳面をつけましょう。字と算なら多少はできます」
「多少?」
朱慈煥が聞き返す。
「かなりできます」
陳永華は真顔で言い直した。
「頼もしい」
「当然です。荷を担ぐだけなら、私がここにいる意味がありませんから」
すると陳志遠が、少し考えた後、わざと低い声を作った。
「では、私は用心棒ですね」
腰の小刀に手を添え、いかにも凄みを出そうとする。
沈黙が落ちた。
朱慈煥と陳永華は顔を見合わせた。
そして、ほぼ同時に吹き出した。
「何ですか」
陳志遠が不満そうに言う。
「いや、似合わないわけではない」
朱慈煥が口元を押さえながら言った。
「ただ、思ったより悪党ぶるのが下手だなと」
「用心棒というより、真面目な門番ですね」
陳永華が追い打ちをかける。
「二人とも、ひどくありませんか」
陳志遠は耳を赤くした。
その様子がおかしくて、朱慈煥はまた少し笑った。
瑞安で見た処刑。もぬけの村。沈雲英の疲れた兵たち。寧波へ向かう道中で出会った、飢えと恨みを抱えた人々。
ここ数日、三人の旅には重いものばかりが積み重なっていた。
だからこそ、このささやかな笑いが、不思議とありがたかった。
「決まりだ」
朱慈煥は地図を畳んだ。
「薬材商を探す。できれば余姚か紹興方面へ向かう者がいい。俺は薬材を見る。永華は帳面を書く。志遠は用心棒だ」
「だから、その言い方はやめてください」
「用心棒殿、明日は頼む」
「殿下まで」
その夜、三人は久しぶりに笑い合った。
瑞安で見たものも、もぬけの村の静けさも、消えたわけではない。外ではなお、舟山へ渡る船を求める人々の声が続いている。
それでも、狭い客舎の一室には、しばし少年たちの笑い声があった。
翌朝から、彼らは海ではなく陸へ向かう。




