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明末の麒麟児  作者: sawami
第6章
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それぞれの役目

隆武二年(一六四六年)冬 —— 浙江省寧波府

 港から戻った三人は、客舎の狭い部屋で向かい合っていた。

 外では、相変わらず舟山へ渡る船を求める人々の声が聞こえている。港の方角からは怒鳴り声や荷を運ぶ音が混じり、寧波の町そのものが落ち着かぬ熱に浮かされているようだった。

 だが、三人の前にある問題は単純だった。

 船がない。

「選択肢は二つですね」

 陳永華が疲れた顔で言った。

「舟山行き以外の船が出るまで待つか、陸路で進むか」

「待てば、その分だけ目立つ」

 陳志遠が低く言った。

「この町は人の出入りが多すぎます。清の目も、魯王殿下の陣営の目もある。長く留まれば、いずれ面倒に巻き込まれるでしょう」

「同感だ」

 朱慈煥は卓の上に広げた粗末な地図を見下ろした。

 寧波から北へ進むなら、余姚、紹興、杭州方面へ抜ける道がある。そこから嘉興、蘇州へ向かうこともできる。水路を使えれば楽だが、今は無理に港へこだわる必要はない。

「陸路にする」

 朱慈煥は短く言った。

 陳永華が少し意外そうに顔を上げる。

「海路の方が早いのでは」

「早いが、逃げ場がない」

 朱慈煥は静かに答えた。

「俺は一度、海で海賊に襲われている。船の上では、相手が来れば逃げ場は水の中だけだ。大船ならなおさら、乗客も荷もまとめて人質になる」

「……経験者の言葉は重いですね」

「重いというより、嫌な記憶だ」

 朱慈煥は淡々と言った。

「それに、これから先は清国の勢力範囲内を進むことになる。ただの旅人として歩けば怪しまれる。何か職のある者に紛れた方がいい」

 陳永華は眉を上げた。

「職、ですか。何か宛があるのですか」

「薬材商だ」

 朱慈煥は答えた。

 陳志遠が瞬きをした。

「薬材商……ですか」

「ああ。俺は北京にいた頃、いずれ逃げることを考えて『本草綱目』を読んでいた。薬草の名、効能、産地、見分け方くらいなら多少は分かる。南京へ行く途中でも、その知識には何度か助けられた」

 陳志遠は明らかに驚いた顔をした。

「殿下は、そのようなものまで読んでおられたのですか」

「必要だったからな」

「普通、皇子が読むものではないと思いますが」

「普通の皇子は、今ごろ逃亡先で薬材商に紛れようとはしない」

 朱慈煥がそう言うと、陳永華が小さく笑った。

「それは確かに」

 だが、陳永華の目には感心の色も混じっていた。皇族でありながら、薬学、仏典、兵法、歴史、地理にまで手を伸ばしている。目の前の少年は、ただ未来を知る怪しい人物ではなく、実際に生き延びるための準備を積んできた者なのだ。

「では、薬材商に雇われるとして」

 陳永華は少し身を乗り出した。

「殿下が薬材の見分け役、あるいは札書き。私は典簿として帳面をつけましょう。字と算なら多少はできます」

「多少?」

 朱慈煥が聞き返す。

「かなりできます」

 陳永華は真顔で言い直した。

「頼もしい」

「当然です。荷を担ぐだけなら、私がここにいる意味がありませんから」

 すると陳志遠が、少し考えた後、わざと低い声を作った。

「では、私は用心棒ですね」

 腰の小刀に手を添え、いかにも凄みを出そうとする。

 沈黙が落ちた。

 朱慈煥と陳永華は顔を見合わせた。

 そして、ほぼ同時に吹き出した。

「何ですか」

 陳志遠が不満そうに言う。

「いや、似合わないわけではない」

 朱慈煥が口元を押さえながら言った。

「ただ、思ったより悪党ぶるのが下手だなと」

「用心棒というより、真面目な門番ですね」

 陳永華が追い打ちをかける。

「二人とも、ひどくありませんか」

 陳志遠は耳を赤くした。

 その様子がおかしくて、朱慈煥はまた少し笑った。

 瑞安で見た処刑。もぬけの村。沈雲英の疲れた兵たち。寧波へ向かう道中で出会った、飢えと恨みを抱えた人々。

 ここ数日、三人の旅には重いものばかりが積み重なっていた。

 だからこそ、このささやかな笑いが、不思議とありがたかった。

「決まりだ」

 朱慈煥は地図を畳んだ。

「薬材商を探す。できれば余姚か紹興方面へ向かう者がいい。俺は薬材を見る。永華は帳面を書く。志遠は用心棒だ」

「だから、その言い方はやめてください」

「用心棒殿、明日は頼む」

「殿下まで」

 その夜、三人は久しぶりに笑い合った。

 瑞安で見たものも、もぬけの村の静けさも、消えたわけではない。外ではなお、舟山へ渡る船を求める人々の声が続いている。

 それでも、狭い客舎の一室には、しばし少年たちの笑い声があった。

 翌朝から、彼らは海ではなく陸へ向かう。

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