船なき港
隆武二年(一六四六年)冬 —— 浙江省台州府から寧波府への道中
台州を過ぎてから、三人の足取りは目に見えて重くなっていた。
道は悪く、宿は少なく、食べるものも乏しい。清軍の検問を避けるために大きな街道を外れることも多く、遠回りを強いられる日もあった。
中でも一番疲弊していたのは陳永華だった。
もともと書斎で育った少年である。足腰が弱いわけではないが、朱慈煥や陳志遠のように逃亡や鍛錬で体を酷使してきたわけではない。
「……おかしい」
陳永華は荒い息を吐きながら呟いた。
「書物には、旅とは詩情あるもののように書かれていたはずだ」
「それを書いた者は、たぶん荷物を背負って泥道を歩いていない」
朱慈煥が淡々と答える。
「詩人とは信用ならないな」
「今さら気づいたか」
陳志遠が短く言った。
陳永華は言い返そうとしたが、足元の泥に足を取られ、危うく転びかけた。陳志遠が無言で腕を掴んで支える。
「……礼は言わないぞ」
「要りません」
そんなやり取りをしながら、三人は寧波へ向かう道を進んだ。
同じ道を歩く者は少なくなかった。
家財を背負った流民。傷ついた兵。商人らしき男たち。僧形の者。女や子どもを連れた家族。皆、行き先は違うようでいて、どこか同じ方角へ吸い寄せられているようでもあった。
昼過ぎ、三人は道端で休んでいた一団と出会った。
十数人ほどの男たちだった。服装はばらばらで、腰に刀を差している者もいれば、鍬や棍棒を持つ者もいる。顔には疲れが浮かんでいたが、目には妙な熱があった。
「お前たちも寧波へ行くのか」
一人の男が声をかけてきた。
「そうです」
朱慈煥は旅の書生らしく、控えめに答えた。
「舟山へ渡るのか」
「まだ決めていません。寧波で船を探すつもりです」
男は鼻を鳴らした。
「船なら今は取り合いだ。張蒼水様——張煌言様の使いが兵を集めているからな」
「張煌言?」
陳永華が反応した。
男は少し得意げな顔になった。
「知らんのか。寧波の張煌言様だ。魯王殿下を奉じ、清に抗おうとしている。舟山へ渡れば、まだ戦える」
別の男が口を挟んだ。
「俺は清に親父を殺された。どうせ食うにも困っている。なら、せめて刀を持って死ぬ」
「俺は飯が出ると聞いたからだ」
痩せた男がそう言い、乾いた笑いを漏らした。
「明だの清だのは知らん。家族を食わせる米がない。兵になれば、少しは食える」
清への恨みで向かう者。明への忠義で向かう者。食い扶持を求める者。あるいは、ただ流れに押されて歩いている者。
同じ道を歩いていても、胸の内はそれぞれ違った。
朱慈煥はそれを黙って見ていた。
その時だった。
一団の中にいた二人の男が、ちらりと三人を見た。
その目が、あまり良くなかった。
陳志遠が先に気づいた。足を半歩ずらし、朱慈煥と陳永華の前に立つ。
「若いのが三人か」
一人が笑った。
「戦へ行くには頼りねえな。だが、売れば多少にはなるかもしれん」
言い終わるより早く、陳志遠の手が動いた。
腰の小刀が抜かれ、男の喉元に突きつけられる。
同時に、朱慈煥も背負っていた短い木刀を抜き、もう一人の男の膝元を狙う位置に構えた。陳永華は一拍遅れたが、すぐに荷の中から小刀を取り出した。
周囲の空気が一瞬で凍った。
「もう一度言ってみろ」
陳志遠の声は低かった。
男の顔から笑みが消えた。
「……冗談だ」
「冗談に聞こえませんでした」
陳志遠は刃を引かなかった。
朱慈煥は周囲を見た。今ここで騒ぎを大きくするのはまずい。相手は十数人。まともに争えば勝てない。
「行こう、志遠」
朱慈煥が短く言った。
陳志遠はしばらく男を睨んでいたが、やがて小刀を引いた。
三人はその場を離れた。
背後から、誰かの小さな舌打ちが聞こえたが、追ってくる者はいなかった。
「油断も隙もないな」
陳永華が顔をしかめた。
「清軍だけが危ないわけではありません」
陳志遠が答える。
「飢えた者も、追われた者も、武器を持てば危険になります」
「それもまた、乱世か」
陳永華は小さく呟いた。
数日後、三人はようやく寧波に辿り着いた。
港町らしい湿った風が吹いていた。商人や兵、逃亡者や船乗りたちが行き交い、街はざわついている。清の支配下に入りつつある町でありながら、どこか落ち着かない熱を帯びていた。
だが三人には、町の空気を味わう余裕などなかった。
疲れていた。
特に陳永華は、客舎に入るなり寝台に腰を下ろし、そのまましばらく動かなかった。
「……私は今、机と椅子のありがたみを初めて理解した」
「寝る前に靴を脱いでください」
陳志遠が呆れたように言った。
その夜、三人は久しぶりに屋根の下で眠った。
翌朝、朱慈煥たちは寧波の港へ向かった。
目的は旅船を探すことだった。ここから杭州湾方面へ出れば、嘉興、蘇州へ向かう道が開ける。さらに運河を辿れば、済寧へ近づける。
しかし、港へ着いてすぐ、朱慈煥は眉をひそめた。
船が少ない。
いや、漁船や小舟はある。だが、旅人を乗せて北へ向かうような船がほとんど見当たらなかった。桟橋には人が溢れているのに、出る船がない。
陳志遠が船頭の一人に話を聞きに行った。
戻ってきた時、その顔はあまり良くなかった。
「どうだった」
「旅船はしばらく出ないそうです。張煌言殿らに糾合された者たちが、舟山へ渡るため船を集めているとか。大きめの船はほとんど押さえられているそうです」
「徴発か」
「ええ。名目は明のため、魯王殿下のため、とのことですが」
陳永華が港を見回した。
「つまり、我々が北へ行く船はないと」
「今のところは」
朱慈煥は黙って港を見た。
舟山へ向かう者たちの熱気が、港全体を覆っている。兵になろうとする者、逃げようとする者、商売の機会を探す者。船を持つ者は皆、どちらへ舵を切るかを迫られていた。
明のために船が集められている。
だが、そのせいで自分たちの道は塞がれている。
皮肉なものだった。
「舟山へ行くという選択肢は」
陳志遠が問う。
朱慈煥は首を振った。
「行かない」
「魯王殿下の陣営があります。張煌言殿もいる。明の味方です」
「だから危ない」
陳志遠は口を閉じた。
陳永華が朱慈煥を見た。
「旗印にされるからか」
「そうだ」
朱慈煥は短く答えた。
「俺の血は、敵だけでなく味方にも危険だ。善意で担ごうとする者ほど厄介なこともある」
港に吹く風が、三人の短く整えた髪を揺らした。
「今日は戻ろう」
朱慈煥は言った。
「船がないなら、別の道を探すしかない」
「陸路ですか」
「それも含めて考える」
陳永華が疲れたように息を吐いた。
「また歩くのか」
「嫌なら舟山へ行って兵になるか」
「歩きます」
即答だった。
朱慈煥は少しだけ笑った。
三人は港を離れ、客舎へ戻ることにした。
背後では、舟山へ渡る船を求める人々の声が、冬の海風に混じって騒がしく響いていた。
寧波まで来た。
だが、北への道はまだ開けていなかった。




