もぬけの村
隆武二年(一六四六年)冬 —— 浙江省台州府南方
瑞安を出てから、三人はさらに北へ進んだ。道は悪かった。冬の雨が降った後らしく、街道の土はぬかるみ、荷車の轍には濁った水が溜まっている。ところどころ橋が壊れたままになっており、三人は何度も遠回りを強いられた。
台州府の南へ入った頃、遠くに小さな村の集落らしきものが見えた。低い土壁。数十軒ほどの家。竹林と畑に囲まれた、どこにでもあるような村だった。
だが、近づくにつれて、何かがおかしいことに気づいた。
静かすぎる。
犬の声もしない。鶏の鳴き声もない。畑に人影もなく、炊煙も上がっていない。
陳志遠が足を止めた。
「殿下。先に様子を見に行って参ります」
朱慈煥は集落を見つめたまま、短く頷いた。
「気をつけろ。音を立てるな」
「はい」
陳志遠は腰の刀に手を添え、低い姿勢で村へ近づいていった。朱慈煥と陳永華は、少し離れた竹林の陰に身を隠した。
冬の風が竹の葉を揺らす。乾いた音が、やけに大きく聞こえた。
しばらくして、陳志遠が戻ってきた。顔は険しかったが、血の気が引いているわけではなかった。
「どうだった」
「人はいません。村は、もぬけの殻です」
「伏兵は」
「見た限りではありません。ただ……」
陳志遠は一度、村の方を振り返った。
「荒らされています。家がいくつか焼け、蔵は開けられていました。馬車が走った跡もあります。荷を積んで急いで出たような跡です」
三人は慎重に村へ入った。
陳志遠の言葉通り、村には人がいなかった。
家の戸は開いたままになっている。ある家では、炉の灰が冷えきっていた。別の家では、壊れた椀が土間に転がっている。庭先には、使いかけの農具が放り出されていた。村の端の一軒は屋根の半ばまで焼け落ち、黒い梁が冬空に骨のように突き出していた。
蔵の戸はこじ開けられていた。中にあったはずの米俵は消え、床には破れた麻袋とこぼれた籾だけが残っている。何者かが後から入って、残ったものを漁ったのだろう。
陳永華は黙って周囲を見回した。
「死体がない」
ぽつりと呟いた。
陳志遠が頷く。
「血の跡も、ほとんどありません」
「なら、ここで殺されたわけではない」
陳永華は土の上に残った轍を見た。
「村人は先に逃げたのでしょう。荷車に積めるだけ積んで、どこかへ向かった。その後で、空になった村に誰かが入って略奪した」
「清軍か」
陳志遠が低く言った。
「それとも、流民か敗兵か。あるいは盗賊か」
陳永華は首を振った。
「分からない。だが、村人にとっては同じことだ。清軍が来る前に逃げ、逃げた後に家を荒らされた。戻る場所はもうない」
朱慈煥は何も言わなかった。
彼は開いたままの戸口から、一軒の家の中を見た。壁際に、小さな木馬が転がっていた。子どもの玩具だろう。泥をかぶっていたが、つい最近まで誰かがそれで遊んでいたように見えた。
平海衛の路地を走っていた子どもたちの姿が、ふと脳裏をよぎった。
海生、阿福、虎子、石頭。
あの子たちの家も、いつかこうなるかもしれない。
そう思ったが、口には出さなかった。
「行こう」
朱慈煥は短く言った。
「ここに長居しても得るものはない。略奪した者が戻る可能性もある」
「はい」
陳志遠が頷いた。
陳永華は最後にもう一度、村を振り返った。
「人がいない村というのは、死体がある場所よりも不気味ですね」
「死体があれば、何が起きたか分かる」
朱慈煥は歩きながら言った。
「何もないということは、どこへ消えたかも、何に追われたかも分からないということだ」
陳永華は黙った。
三人は村を後にした。
背後に残った集落は、やはり静かだった。風が戸 板を揺らし、軋む音だけが細く響いている。
朱慈煥は北へ続く道を見た。
この先には、もっと酷い場所がある。城ごと焼かれた町。飢えで人が消えた村。降伏しても奪われ、抵抗すれば屠られた土地。史実として知っている。
だが、それをこの目で見ることと、書物で読むことは違う。
自分たちは、まだ入口に立っただけだ。
朱慈煥は胸の内で静かに息を整えた。
あの史実と同じ最期を辿るつもりはない。この旅で見るものを、ただの知識で終わらせるつもりもない。
冬の曇った空の下、三人は台州へ向かって歩き続けた。




