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明末の麒麟児  作者: sawami
第6章
67/114

形だけを変えて

※今日は朝昼晩に投稿します。

隆武二年(一六四六年)冬 —— 浙江省温州府瑞安県郊外


 瑞安の町を出てしばらく歩いたところで、三人は街道脇の林に入った。

 冬の風が枝を揺らしている。遠くには先ほどまでいた町の屋根が見えたが、そこから聞こえていた泣き声はもう届かなかった。

 陳志遠は無言だった。

 陳永華も、いつものように軽口を叩くことはなかった。

 朱慈煥は手頃な倒木に腰を下ろし、荷の中から水筒を取り出した。少しだけ水を口に含み、それから二人を見た。

「髪をどうするか、決めておく必要がある」

 その一言に、陳永華の肩がぴくりと動いた。

「……辮髪にする、ということですか」

 声は低かった。だが、先ほどまでの彼ならもっと強く反発していただろう。沈雲英との出会い、そして瑞安の町で見たものが、彼の言葉から勢いを奪っていた。

「私は反対です」

 それでも、陳永華ははっきりと言った。

「髪を剃れば清に従ったことになる。少なくとも、周囲にはそう見える」

「見えることが重要な場面もある」

 朱慈煥は静かに返した。

「清の支配圏を進む以上、今のままでは目立つ。道中で何度も検問を受ければ、どこかで必ず綻びが出る」

 陳志遠が口を開いた。

「やむを得ない場合は、仕方ないかもしれません」

 言葉を選ぶような声だった。

「ですが、殿下にそれをさせるわけにはいきません。殿下は崇禎帝の御子です。大明の皇族であらせられる方が、清の辮髪など……」

 そこで陳志遠は言葉を切った。

 言い過ぎたと思ったのか、それとも先を続けること自体が苦しかったのか。

 朱慈煥は少しだけ目を細めた。

「志遠。俺は一度、髪を剃ったことがある」

 二人が同時に朱慈煥を見た。

「天津で僧たちに置き去りにされた時だ。生き延びるために、自分で頭を剃った。僧に見せかけ、経を唱え、流民たちの荷を直して、船に乗せてもらった」

 陳志遠は息を呑んだ。

 陳永華も、驚きを隠せない顔をしていた。

「必要なら辮髪でなくとも、丸坊主にでもなる」

 朱慈煥は淡々と言った。

「髪に殉じるつもりはない。俺たちは済寧へ向かう。その前に死ぬわけにはいかない」

「……殿下」

 陳志遠は何か言いたげだった。

 だが結局、唇を強く結んで飲み込んだ。

 陳永華は俯いたまま、しばらく黙っていた。

「頭では、分かっています」

 やがて、彼は小さく言った。

「分かっているつもりです。髪一本で死ぬことに意味があるのか、と父にも言いました。けれど……いざ自分の髪を切るとなると」

「怖いか」

「怖いというより」

 陳永華は自分の髪に触れた。

「何かを、自分から捨てるような気がします」

 朱慈煥はその言葉を否定しなかった。

「そうだな。恥かもしれない。屈辱に見えるかもしれない。何かを捨てる行為でもある」

 風が林の中を抜けた。

「だが、俺があの時坊主にならなかったら、南京に辿り着くことも、鄭成功殿に会うことも、志遠やお前のような心を許せる友に出会うこともなかった」

 陳永華が顔を上げた。

「髪を切ったことで失ったものもある。だが、その先で得たものもある。臥薪嘗胆と言うつもりはない。ただ、今は生きるために形を変える時だ」

 朱慈煥は荷から小さな布を取り出した。

「切った髪を、少しだけ残しておけばいい」

「残す?」

「お守りにでもすればいい。清に従った証として捨てるのではなく、自分が何者だったかを忘れないために持っておく。髪を切っても、心まで渡す必要はない」

 陳永華はしばらく黙っていた。

 それから、渋々といった様子で頷いた。

「……それなら、まだ納得できます」

「志遠は」

 朱慈煥が問うと、陳志遠は深く頭を下げた。

「殿下がそうお決めになるなら、従います。ただし、私が先に切ります」

「律儀だな」

「護衛ですので」

 朱慈煥は少しだけ笑った。

 林の奥で、三人は互いの髪を整えた。

 完全な辮髪にはしなかった。頭頂を大きく剃るのではなく、前髪と側頭の一部を短く落とし、後ろ髪を細く結う。遠目には清に従った旅人に見えるが、しばらく伸びれば普通の髪型に戻せる程度に留めた。

 危うい偽装だった。

 だが今の三人には、それで十分だった。

 陳志遠が切った髪を小さく束ね、布で包んだ。陳永華は自分の髪の束をしばらく見つめていたが、やがて懐にしまった。

「妙な気分です」

「それでいい」

 朱慈煥は自分の髪の束を指先で結びながら言った。

「何も感じなくなったら、その方がまずい」

 陳永華は皮肉を返そうとして、結局やめた。

 朱慈煥もまた、切った髪を小さな布に包み、懐に入れた。

 かつて天津で髪を剃った時は、そんなことをする余裕などなかった。ただ生きるために、刃を動かしただけだった。

 今は違う。

 彼の傍には、同じように髪を切り、同じように何かを飲み込んだ二人がいる。

「行こう」

 朱慈煥は立ち上がった。

 三人は再び北へ向かって歩き始めた。

 冬の風が、短くなった髪を撫でていく。

 清の地を進むため、彼らは髪を切った。

 だが、それは心を折られたからではない。

 心を折られぬために、形だけを変えたのだ。

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