形だけを変えて
※今日は朝昼晩に投稿します。
隆武二年(一六四六年)冬 —— 浙江省温州府瑞安県郊外
瑞安の町を出てしばらく歩いたところで、三人は街道脇の林に入った。
冬の風が枝を揺らしている。遠くには先ほどまでいた町の屋根が見えたが、そこから聞こえていた泣き声はもう届かなかった。
陳志遠は無言だった。
陳永華も、いつものように軽口を叩くことはなかった。
朱慈煥は手頃な倒木に腰を下ろし、荷の中から水筒を取り出した。少しだけ水を口に含み、それから二人を見た。
「髪をどうするか、決めておく必要がある」
その一言に、陳永華の肩がぴくりと動いた。
「……辮髪にする、ということですか」
声は低かった。だが、先ほどまでの彼ならもっと強く反発していただろう。沈雲英との出会い、そして瑞安の町で見たものが、彼の言葉から勢いを奪っていた。
「私は反対です」
それでも、陳永華ははっきりと言った。
「髪を剃れば清に従ったことになる。少なくとも、周囲にはそう見える」
「見えることが重要な場面もある」
朱慈煥は静かに返した。
「清の支配圏を進む以上、今のままでは目立つ。道中で何度も検問を受ければ、どこかで必ず綻びが出る」
陳志遠が口を開いた。
「やむを得ない場合は、仕方ないかもしれません」
言葉を選ぶような声だった。
「ですが、殿下にそれをさせるわけにはいきません。殿下は崇禎帝の御子です。大明の皇族であらせられる方が、清の辮髪など……」
そこで陳志遠は言葉を切った。
言い過ぎたと思ったのか、それとも先を続けること自体が苦しかったのか。
朱慈煥は少しだけ目を細めた。
「志遠。俺は一度、髪を剃ったことがある」
二人が同時に朱慈煥を見た。
「天津で僧たちに置き去りにされた時だ。生き延びるために、自分で頭を剃った。僧に見せかけ、経を唱え、流民たちの荷を直して、船に乗せてもらった」
陳志遠は息を呑んだ。
陳永華も、驚きを隠せない顔をしていた。
「必要なら辮髪でなくとも、丸坊主にでもなる」
朱慈煥は淡々と言った。
「髪に殉じるつもりはない。俺たちは済寧へ向かう。その前に死ぬわけにはいかない」
「……殿下」
陳志遠は何か言いたげだった。
だが結局、唇を強く結んで飲み込んだ。
陳永華は俯いたまま、しばらく黙っていた。
「頭では、分かっています」
やがて、彼は小さく言った。
「分かっているつもりです。髪一本で死ぬことに意味があるのか、と父にも言いました。けれど……いざ自分の髪を切るとなると」
「怖いか」
「怖いというより」
陳永華は自分の髪に触れた。
「何かを、自分から捨てるような気がします」
朱慈煥はその言葉を否定しなかった。
「そうだな。恥かもしれない。屈辱に見えるかもしれない。何かを捨てる行為でもある」
風が林の中を抜けた。
「だが、俺があの時坊主にならなかったら、南京に辿り着くことも、鄭成功殿に会うことも、志遠やお前のような心を許せる友に出会うこともなかった」
陳永華が顔を上げた。
「髪を切ったことで失ったものもある。だが、その先で得たものもある。臥薪嘗胆と言うつもりはない。ただ、今は生きるために形を変える時だ」
朱慈煥は荷から小さな布を取り出した。
「切った髪を、少しだけ残しておけばいい」
「残す?」
「お守りにでもすればいい。清に従った証として捨てるのではなく、自分が何者だったかを忘れないために持っておく。髪を切っても、心まで渡す必要はない」
陳永華はしばらく黙っていた。
それから、渋々といった様子で頷いた。
「……それなら、まだ納得できます」
「志遠は」
朱慈煥が問うと、陳志遠は深く頭を下げた。
「殿下がそうお決めになるなら、従います。ただし、私が先に切ります」
「律儀だな」
「護衛ですので」
朱慈煥は少しだけ笑った。
林の奥で、三人は互いの髪を整えた。
完全な辮髪にはしなかった。頭頂を大きく剃るのではなく、前髪と側頭の一部を短く落とし、後ろ髪を細く結う。遠目には清に従った旅人に見えるが、しばらく伸びれば普通の髪型に戻せる程度に留めた。
危うい偽装だった。
だが今の三人には、それで十分だった。
陳志遠が切った髪を小さく束ね、布で包んだ。陳永華は自分の髪の束をしばらく見つめていたが、やがて懐にしまった。
「妙な気分です」
「それでいい」
朱慈煥は自分の髪の束を指先で結びながら言った。
「何も感じなくなったら、その方がまずい」
陳永華は皮肉を返そうとして、結局やめた。
朱慈煥もまた、切った髪を小さな布に包み、懐に入れた。
かつて天津で髪を剃った時は、そんなことをする余裕などなかった。ただ生きるために、刃を動かしただけだった。
今は違う。
彼の傍には、同じように髪を切り、同じように何かを飲み込んだ二人がいる。
「行こう」
朱慈煥は立ち上がった。
三人は再び北へ向かって歩き始めた。
冬の風が、短くなった髪を撫でていく。
清の地を進むため、彼らは髪を切った。
だが、それは心を折られたからではない。
心を折られぬために、形だけを変えたのだ。




