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明末の麒麟児  作者: sawami
第6章
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人の心を折るもの

隆武二年(一六四六年)冬 —— 浙江省温州府瑞安県

 沈雲英の一団と別れてから、三人はさらに北へ進んだ。

 清軍の勢力圏に近づくにつれ、道の空気は目に見えて変わっていった。

 小さな港には検問が置かれ、街道には見慣れぬ旗が立つ。村の入り口には木札が打ちつけられ、そこには清朝への帰順、税の納入、そして辮髪に関する命令が書かれていた。

 朱慈煥はなるべく目立たぬよう、旅の書生を装って歩いた。陳志遠は少し離れて周囲を警戒し、陳永華は何か言いたげに町や村の様子を見ていた。

 瑞安県の町に入ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。

 市場は開いていたが、活気は薄かった。人々は声を潜め、兵の姿を見かけるたびに道の端へ寄った。店先に並ぶ布や米は以前と変わらぬはずなのに、町そのものが息を殺しているようだった。

 その時、通りの奥が騒がしくなった。

 朱慈煥は足を止めた。

 清軍と思しき兵士たちが、一軒の家から人々を引きずり出していた。先頭には、縄で両手を縛られた中年の男がいる。髪はまだ剃られていない。乱れた髷が肩に落ち、頬には殴られた跡があった。

 その後ろに、妻と思しき女と、老人、二人の子どもが続いていた。女は泣きながら兵士にすがったが、兵の一人に突き飛ばされた。

「父上!」

 幼い男の子が叫ぶ。

 縛られた男は振り返ろうとしたが、兵に背を突かれてよろめいた。

 陳志遠の手が、腰の小刀に触れた。

「志遠」

 朱慈煥は名だけを呼んだ。

 それだけで、陳志遠の手は止まった。だが拳は固く握られたままだった。

 陳永華は顔を強張らせ、引きずられていく一家を見つめていた。

「何があったのですか」

 朱慈煥は近くにいた町人に声をかけた。五十がらみの男だった。男は一瞬こちらを警戒したが、三人が若い旅人だと見ると、声を潜めて答えた。

「余計なことは聞かん方がいい」

「お願いします。何が」

 町人は通りの奥を見やり、さらに声を低くした。

「二十日以内に辮髪せよとの命が出た。あの家の主は、それを公然と拒んだんだ」

「拒んだ?」

「『身体髪膚は父母より受けたもの、これを傷つけるは孝にあらず』とな。役人の前で言ったらしい」

 男は苦い顔をした。

「立派なことを言った。だが、立派な言葉は兵の刀を止めん。今日は見せしめだ。家長は殺される。家も没収されるだろう。家族がどうなるかは……知らん」

 陳永華の顔から血の気が引いた。

「町の者は、何もしないのですか」

 思わず漏れた問いだった。

 町人は陳永華を見た。怒りでも侮蔑でもなく、ただ疲れきった目だった。

「何かしたら、次はわしらの番だ」

 その一言で、陳永華は黙った。

 町人は朱慈煥たちの髪を見た。まだ辮髪にはしていない。

「命が惜しいなら、早いところ髪を剃ることだ。若い命を、髪ひとつで捨てるもんじゃない」

 そう言い残し、町人は足早に去っていった。

 通りの向こうでは、兵士たちが縛られた男を広場の方へ連れていく。泣き叫ぶ家族の声が、冬の町に響いていた。

 朱慈煥は動かなかった。

 助けに入るという選択肢は、最初からなかった。相手は清軍の兵。こちらは少年三人。武器も人数も、逃げ道も足りない。

 ここで刃を抜けば、三人は死ぬ。

 そして、あの一家も助からない。

 だから、動かない。

 そう判断するまでに、ほんの一息もかからなかった。

「……人の心を折るのが早い」

 ぽつりと呟いたのは、陳永華だった。

 数日前、小港で別れた沈雲英の言葉だった。

 その意味を、彼は今ようやく理解したのだろう。

 刀で斬る前に、周囲を黙らせる。

 一人を殺すことで、百人に自ら髪を剃らせる。

 逆らう者を討つだけでなく、見ている者たちに「逆らえない」と思わせる。

 それが支配だった。

 陳志遠は何も言わなかった。ただ、拳を握りしめたまま、広場の方を睨んでいた。

 朱慈煥は二人を見た。

 ここで答えを与えるために、彼らを連れてきたわけではない。

 答えなど、朱慈煥自身にもない。

 あるのは、ただ事実だけだ。

 広場の方から、短い悲鳴が上がった。

 町の人々は、一斉に目を伏せた。誰も声を出さなかった。

「……行こう」

 朱慈煥は静かに言った。

 陳志遠は拳を握ったまま頷き、陳永華は一度だけ広場の方を振り返った。

 三人は瑞安の町を後にした。

 背後から、子どもの泣き声がまだ聞こえていた。

 朱慈煥は振り返らなかった。

 ただ、歩きながら自分の髪に触れた。

 かつて天津で、一人で頭を剃ったことがある。僧に見せかけ、生き延びるためだった。あの時も髪を捨てた。だが、それは自分で選んだことだった。

 今、あの男に突きつけられているものは違う。

 髪を捨てるか。

 命を捨てるか。

 選択の形をしていながら、そこに選ぶ自由などなかった。

 まだ切っていない髪が、冬の風に揺れていた。

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