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明末の麒麟児  作者: sawami
第6章
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道州の女将

隆武二年(一六四六年)冬 —— 浙江沿岸の小港

 北へ向かう船旅は、思いのほか順調ではなかった。

 福建を離れて以降、沿岸の港には清軍の目が増えていた。大きな港には検問が置かれ、商船は通行証を求められる。兵を乗せた船も時折見えた。鄭芝龍が降ったという噂は、すでに沿岸一帯に広がっている。

 清に従う者。逃げる者。様子を見る者。

 海辺の空気は、どこも重かった。

「このまま大きな港へ入るのは危険です」

 陳志遠が低い声で言った。

「分かっている」

 朱慈煥は船縁から岸を見た。

「小さな湊に入ろう。水と食料を補うだけでいい」

 船は人目を避けるように、岩場に囲まれた小さな港へ入った。漁船が数隻あるだけの寂れた場所だった。だが、そこには先客がいた。

 数十人ほどの兵の集団だった。

 いや、兵と言うには、あまりに疲れ果てていた。鎧は泥と潮に汚れ、槍の穂先は欠け、荷を背負う者の足取りは重い。負傷者も混じっている。港の隅では、数人が火を囲んで粥をすすっていた。

 陳志遠が自然に朱慈煥の前へ出た。

「敗兵か」

 陳永華が小声で呟く。

「敗兵か、義兵か。見ただけでは分からない」

 朱慈煥は静かに答えた。

 三人は余計な揉め事を避けるため、兵たちの横を通り過ぎようとした。その時だった。

「そこの三人」

 低く、よく通る声がした。

 三人が足を止める。

 声をかけてきたのは、兵たちの中心にいた若い武人だった。男装している。質素な旅装に、腰には刀。顔には薄く土埃がついているが、目だけは鋭かった。

 背丈は高くない。だが立ち姿に隙がない。

「どこへ行く」

 陳志遠の手が、腰の小刀へわずかに近づいた。

 朱慈煥はそれを目で制した。

「北へ」

「北は危ない。清軍の検問が増えている」

「承知しています」

「承知していて行くのか」

「行かねばならないので」

 若い武人は三人をじっと見た。

 朱慈煥、陳志遠、陳永華。いずれも若い。しかも旅慣れしているようで、ただの商家の子弟にも見えない。

 その目が、少し細くなった。

「旅をしているのか」

「はい」

 朱慈煥は答えた。

「北の様子を見に行く旅です」

「様子を見に、か」

 武人は小さく鼻を鳴らした。

「変わった三人だ」

 その声を聞いた瞬間、朱慈煥は内心で気づいた。

 声がわずかに高い。喉の響きも、男のものとは違う。男装しているが、女だ。

 陳志遠も気づいたらしい。目の色が変わった。陳永華も一拍遅れて、まじまじと相手を見た。

 武人はそれに気づいたのか、少しだけ眉を上げた。

「何だ」

「いえ」

 朱慈煥は首を振った。

「ただ、見事な立ち姿だと思いまして」

「口が上手いな」

「よく言われます」

 陳永華が横目で朱慈煥を見た。

 兵たちの一人が、武人に近づいて耳打ちした。若い武人は短く頷く。

「我々はすぐ出る。お前たちも長居はしない方がいい」

「どちらへ向かわれるのですか」

 陳永華が尋ねた。

 武人の目が、今度は陳永華へ向いた。

「なぜ聞く」

「ただの好奇心です」

「好奇心で長生きできる時代ではない」

「最近、それを学び始めたところです」

 武人はわずかに口元を緩めた。

「舟山へ向かう。魯王殿下の陣営と合流できるかもしれぬ」

 朱慈煥は静かに息を呑んだ。

 舟山。魯王朱以海の勢力が海上に拠点を移そうとしている地だ。清の追撃を逃れ、明の残党がなお抗おうとしている場所。

 この女武人が、そこへ向かう。

 陳永華がさらに尋ねた。

「あなたは、どなたです」

 若い武人は少し黙った。

 それから、短く名乗った。

「沈雲英。道州守備、沈至緒の娘だ」

 三人の間に、わずかな沈黙が落ちた。

 朱慈煥は思わず相手を見つめた。

 沈雲英。

 前世で読んだ明末の記録が、脳裏をよぎる。

 道州で父・沈至緒が戦死した後、その遺骸を奪い返し、兵を率いて城を保った女将。後世、忠孝と勇烈の象徴として語られる人物。

 その名が、目の前にいる。

 しかも、まだ若い。

 史料の中の名ではない。土埃にまみれ、疲れた兵を率い、なお背筋を伸ばして立つ、一人の人間として。

「道州の……」

 陳志遠が低く呟いた。

 沈雲英は表情を変えなかった。

「噂が届いているのか」

「少しだけ」

 朱慈煥は答えた。

「父君のことも」

 沈雲英の目に、ほんのわずかな影が差した。

「噂は、いつも肝心なものを削って広がる」

 静かな声だった。

「父は、武功のために死んだのではない。道州の民を守ろうとして死んだ。それだけだ」

 朱慈煥は何も言わなかった。

 沈雲英は三人を見回した。

「お前たちが何者かは知らない。だが、北へ行くなら覚えておけ。清軍は強い。兵も強いが、それ以上に、人の心を折るのが早い」

「心を、ですか」

 陳永華が聞き返す。

「ああ。降れば助けると言い、従えば商いを許すと言う。髪を剃れば命を残すと言う。そうして人は、昨日まで守っていたものを一つずつ手放していく」

 沈雲英は、港の向こうに広がる灰色の海を見た。

「それでも、どうしても行く場所がなくなったら、道州へ向かえ。私の名を出せば、少なくとも飯と寝床くらいは用意させる」

「よろしいのですか」

 陳志遠が問う。

「子ども三人を野垂れ死にさせたとあっては、父に顔向けできぬ」

 そう言って、沈雲英は兵たちへ合図した。

 疲弊した集団が、ゆっくりと動き始める。足取りは重い。だが、沈雲英が先頭に立つと、兵たちは不思議と背筋を伸ばした。

 朱慈煥はその背を見つめた。

「沈殿」

 思わず声をかけた。

 沈雲英が振り返る。

「ご武運を」

 沈雲英は少しだけ目を細めた。

「お前たちもな」

 それだけ言い残し、道州の女将とその兵たちは、小さな港を後にした。

 しばらく誰も口を開かなかった。

 やがて陳永華が、ぽつりと言った。

「……父を失っても、あの人は歩いているのですね」

「そうだな」

 朱慈煥は静かに答えた。

「死ぬためではなく、まだ捨てられないものがあるから歩いている」

 陳永華は沈雲英たちが去った道を見ていた。

 つい先日まで、彼は父に「大義で民は救えない」と叫んだ。

 だが今、目の前にいた女は、父の死を背負いながらも、民を捨てずに歩いていた。

 書物にはない答えが、また一つ増えた。

 朱慈煥は北の空を見上げた。

 清の支配は、もう遠くの出来事ではない。

 それは人を折り、髪を切らせ、道を変えさせる。

 だが、それでもなお歩く者がいる。

 三人は、水と干し飯を補給すると、再び北へ向かう船を探し始めた。

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