陸に上がった海賊
隆武二年(一六四六年)冬 —— 福建省、福州北郊
馬車の車窓から流れゆく福建の山並みを眺めながら、鄭芝龍は不敵な笑みを浮かべていた。
懐にあるのは、清軍の将・博洛から届いた密書である。そこには、清に降るならば「閩広総督」の地位を与え、福建と広東の二省をそのまま鄭家に委ねるという破格の条件が記されていた。
――明という沈みゆく泥舟に、これ以上『張る』価値はない。
海賊から身を起こし、東シナ海の覇者となった鄭芝龍にとって、政治とは大義名分ではなく、純然たる損得と勝負の計算だった。北京が落ち、南京が血に染まり、今また福州の隆武政権も内輪争いで瓦解しかけている。そんな泥舟と心中するほど、彼は愚かではない。
仙霞関の守備兵を引かせたのは、新たなる主への、これ以上ない手土産であった。
「父上! 行ってはなりません!」
脳裏に、数日前、福州の屋敷で涙ながらに引き止めてきた息子の姿が蘇る。
大明の皇帝から「朱」の国姓を賜り、忠義の念に燃える若き成功は、鄭芝龍の服の裾を掴んで激しく訴えたものだ。
『虎や豹は、深い山や森にいるからこそ恐れられるのです。山を降りて平地に出てしまえば、ただの犬や羊に成り下がってしまいます! 我ら鄭家の強さは海にあります。陸に上がり、清の陣営に身を投じるなど、自ら牙を抜くようなものです!』
息子の必死の形相を思い出し、鄭芝龍はふっと鼻を鳴らした。
「青二才が。何も分かっておらん」
海が鄭家の生命線であることなど、百も承知だ。だが、陸の港を押さえられ、商売の拠点を焼き払われれば、いかに巨大な船団を持っていようと干からびるだけだ。
何より、清軍には水軍がない。彼らが南の海を統治し、莫大な富を生む海上貿易を維持するためには、どうしても鄭芝龍の艦隊とネットワークが必要になる。
ふと、成功の顔に重なるように、別の少年の顔が脳裏を掠めた。
数ヶ月前、平海衛で労咳を患い、あっけなく血を吐いて死んだという、あの得体の知れない小僧だ。
書生の姿で泉州の屋敷に現れ、崇禎帝の第三皇子だと名乗ったあの小柄な体は、今にも折れそうに脆弱だった。だが、あの時小僧が自分を見上げた目は——怯えも、庇護を求めるすがりつきも一切ない、ひどく冷ややかな、まるで盤面を上から見下ろすような目だった。
『南京の弘光帝政権は長くは保ちません。清に対抗するためには、この福建の地が必要です』
そう前置きした上で、小僧は揚州での清軍の動向や、南明内部の腐敗、さらには清に降った将(三藩)がいずれ反旗を翻すであろうという予測まで、流れるように語ってみせた。
年端もゆかぬ病弱な子供の口から出たとは思えない、あの理路整然とした分析と交渉術。天下の動静をまるで掌の上にあるかのように語るその姿に、一瞬だけ、海千山千の海賊あがりである自分の背筋に、得体の知れない冷たいものが走ったのを覚えている。
「……だが、所詮は死人よ」
鄭芝龍は、湧き上がった微かな不快感を振り払うように鼻で笑った。
どんなに頭が切れようと、底知れぬ目をしていようと、体が弱くて死んでしまっては元も子もない。生き残った者が、そして力と財を握り続けた者が、この世の勝者なのだ。あの小僧は運命の重さに耐えきれず死に、己は今新たな覇者から厚遇を約されて向かっている。それが全てだ。
もちろん、清を全面的に信じているわけではない。だが、こちらには海がある。海という最大の切り札を握っているからこそ、対等以上の条件で清の朝廷に乗り込める——。故に清が自分を無体に扱えるはずがない。鄭芝龍は、己の商才と、築き上げてきた圧倒的な力に絶対の自信を持っていた。
「まもなく、清軍の本陣でございます」
御者の声と共に、馬車が速度を落とした。
窓の外を見遣ると、そこには見渡す限りの清軍の天幕が広がっていた。はためくのは、明のそれとは異なる、満洲八旗の色とりどりの旗。均整の取れた騎馬隊が、冷徹な威圧感を放ちながら行き交っている。
「ふん……。大層な軍勢だが、海の上ではただの案山子よ」
鄭芝龍は衣服を整え、ふんぞり返るようにして馬車の扉を開けた。
彼を出迎えた清の将兵たちは、一様に恭しく頭を下げ、海の王を歓迎する姿勢を示した。その様子を見て、鄭芝龍の胸中の確信はさらに深まった。やはり清は、自分を破格の待遇でもてなすつもりなのだ、と。
「歓迎いたしますぞ、鄭どの。さあ、こちらへ」
案内されるまま、鄭芝龍は堂々と清軍の本陣へと足を踏み入れた。
己が握る「海」という手札があれば、どのような動乱をも乗りこなせる。そう信じて疑わない男の背中は、夕暮れの福建の山に溶けていく。
それが、二度と戻れぬ底なしの罠であることなど、この時の彼は知る由もなかった。




