若き臥龍との邂逅
※違和感があったので書き直しました。
隆武二年(一六四六年)冬 —— 福建省、平海衛
同安を出立した三人は、陸路を北上するのではなく、あえて東の沿岸部——平海衛へと迂回していた。
「殿下。北の江南へ向かうのであれば、この海防の町に立ち寄るのは遠回りになりますが」
道中、不思議そうに尋ねる陳永華に対し、朱慈煥は前を向いたまま穏やかな声で答えた。
「あぁ。だが、ここを離れる前に、どうしても会っておきたい友がいてね」
これからの過酷な旅を前に、大明の皇子がわざわざ迂回してまで会いたいと願う人物。陳永華は、それがどれほど有力な将軍か、あるいは優秀な隠遁の士なのかと想像を巡らせた。
だが、朱慈煥が二人を案内したのは、町外れの海が見える小高い丘だった。
そこには、真新しい小さな墓標がぽつんと立っていた。
「……誰の墓ですか」
「俺の墓だ。数ヶ月前、俺はここで一度死んだことになっている」
淡々と告げられた事実に、永華は息を呑んだ。己の死すらも盤面の一手として利用し、完全に身を隠して動く。この同年代の主君の奥底にある、冷徹で底知れぬ計算に戦慄を覚えた、その時だった。
「——わあっ!?」
突如、背後の茂みから短い悲鳴が上がった。
振り返ると、そこには野菊の花を握りしめた四人の子どもたちが立ちすくんでいた。
「ゆ、幽霊……! 文兄ちゃんの幽霊だぁ!」
丸々とした顔の呉阿福が、涙目になって尻餅をつく。一番年長で体格の良い林虎子が、震えながらも阿福を庇うように前に出た。
「ば、馬鹿野郎、昼間に幽霊なんか出るか! ……文兄ちゃん、お前、ほんとに生きて……?」
その後ろから、漁師の子である陳海生が目を丸くして見つめ、一番幼い林石頭は、ふらふらと駆け寄ろうとして派手に転んだ。だが泣きもせず、泥だらけの顔を上げて朱慈煥の足元にすがりつく。
「文兄ちゃん。あったかい。生きてる」
朱慈煥は、着物の汚れも気にせず静かにしゃがみ込み、石頭の頭を優しく撫でた。
かつて、この平海衛の路地で共に鬼ごっこをして駆け回った日々。皇子としての重圧を忘れ、「ただここにいるだけでいい」と思わせてくれた、かけがえのない悪友たち。
「ごめんね、みんな。少し、遠くに行かなくちゃいけなくて……心配かけて本当にごめん」
朱慈煥は困ったように眉を下げ、心から申し訳なさそうに謝った。
その顔に浮かんでいたのは、永華に見せていた「盤面を操る者」の冷たい笑みではなく、年相応の、ただの人の良い少年の表情だった。
「なんだよそれ! ずっと後悔して、毎日墓参りしてたのに!」
海生が鼻を啜りながら抗議し、阿福もわあわあと泣きながら朱慈煥に抱きついた。虎子も安堵したようにへたり込む。
「だから、こうして顔を見に来たんだ。……しばらく、また遠くへ行く前に」
朱慈煥は子どもたちを宥めながら、ふと視線を上げて永華を見た。
「永華。俺がここへ来たのは、人材を探すためでも、情報を得るためでもない。ただ、彼らの顔をもう一度だけ見ておきたかったからだ」
「……この子どもたちが、殿下の『友』ですか」
「あぁ。俺にとって、どうしても得難い大切なものなんだ」
永華は黙って、子どもたちに囲まれて笑う朱慈煥を見つめていた。死を偽装し、国を盤面として見る冷徹な目。しかしその一方で、名もなき路地裏の子どもたちのために遠回りし、心からの謝罪とともにその涙を拭う手を持っている。
(……この人は、ただ打算的に計算しているわけじゃないのか)
書物の中の「仁義」に絶望していた永華にとって、朱慈煥のこの人間臭い矛盾こそが、命を預けるに足る強烈な魅力に思えた。
「虎子、海生。実はもう一つ、お前たちに頼みがあるんだ」
一頻り再会を喜んだ後、朱慈煥は真剣な目をして子どもたちに向き直った。
「海生の親父さんの漁船を、少しの間貸してもらえないか。目立たずに北へ行くための足が要るんだ」
鄭芝龍の裏切りによって、平海衛の守備兵たちも動揺し、港の警備は穴だらけになっているはずだ。正規の大型船ではなく、海生の父親が持つような小回りの利く漁船こそが、密かに海を渡るには最適だった。
「親父の船? わかった、俺から言ってみる! 文兄ちゃんの頼みなら、親父だって絶対貸してくれるさ!」
海生は胸を叩き、駆け出した。虎子たちも「俺たちも手伝う!」とそれに続いた。
その夜、海生は息を切らせて丘に戻ってきた。
「親父、文兄ちゃんが生きてたって聞いて、最初は腰抜かしてたけどさ。でも『あの坊主の頼みなら船一艘くらいくれてやれ』だってさ!」
海生の父親は、平海衛の漁師として鄭家配下の兵たちの横暴さを快く思っていなかった。「朱文」という書生が監視下にあったことは町でも知られていた話で、その少年が死を偽装してまで逃れたと聞き、むしろ快く協力を申し出てくれたという。
子どもたちの背中を見送った後、永華は朱慈煥の隣に並んだ。海風に吹かれながら、墓標と、海辺へ駆けていく子どもたちの背中を見比べる。
「……最高に馬鹿げた、そして最高にやり甲斐のある目標ですね。あの路地を守るための盤面、俺が必ず実現させてみせますよ」
「頼もしい軍師殿だ」
朱慈煥は静かに笑い、北の空を見上げた。
海生の父親の計らいで確保した小さな漁船。
夕闇が迫る中、岸辺で大きく手を振る子どもたちに見送られながら、朱慈煥、陳志远、陳永華の三人を乗せた船は、冬の冷たい海へと漕ぎ出した。
目指すは北。清軍の過酷な支配下にある江南地方——蘇州。
若き三人を乗せた小舟は、静かに北へ向かった。




