暗躍の旅立ち
隆武二年(1646年)秋 福建省、廈門
小高い丘の上に建つ鄭成功の隠れ屋敷に匿われてから、数ヶ月の月日が流れていた。
その間、朱慈煥は屋敷の敷地から一歩も外に出なかった。
鄭芝龍の放った探索の目が完全に反れるのを待つためでもあるが、彼にはやらねばならないことが山積みだったのだ。
日中は陳志遠を相手に子母刀の稽古に汗を流し、体ができあがっていくのに合わせて武術の練度を上げていく。数えで十三となる体は、数ヶ月前までの痛々しいほどの痩せ細った面影を脱し、少年らしいしなやかな筋肉と背丈を身につけつつあった。
そして夜は、膨大な書物に目を通す傍ら、鄭成功を仲介役として、南明陣営にいる数少ない「本物の忠臣」たちと密かに書簡を交わしていた。
その筆頭が、隆武帝の朝廷で重鎮たる地位にある大学士・黄道周である。
『崇禎帝の御子がご健在であられたとは。この黄道周、直ちに廈門へ向かい、直の拝謁を賜りとう存じます』
鄭成功経由で届けられた密書には、忠義に燃える老臣の震えるような筆致が残されていた。
史実の知識通りであれば、黄道周はこの数ヶ月前、無謀な北伐(清軍への攻撃)を強行して捕らえられ、処刑されているはずだった。だが、朱慈煥が鄭成功を通じて「無謀な出兵は徒労に終わる。今は福州で帝を護ることに専念せよ」と強く釘を刺したことで、歴史の歯車が微かに狂い、彼は今も福建で生き延びていた。
しかし、朱慈煥は黄道周の熱烈な面会要請を冷たく突っぱねた。
『今はまだ、私が生きていることが鄭芝龍に知られればすべてが終わる。事情が許すまで、いかなる者にも私の存在を漏らさず、ただ沈黙して機を待て』
そう返書を送り、息を潜めて情勢を見守り続けていたのだ。
そして——ついに、その「機」が訪れた。
「殿下!」
ある日の昼下がり、血相を変えた陳志遠が裏庭へと駆け込んできた。手には木刀を持ったままだ。
「声が大きい、志遠。ここが安全な屋敷だとしても、誰が聞いているか分からないぞ」
素振りをしていた朱慈煥は短い木刀を下ろし、静かに窘めた。陳志远はハッとして慌てて声を潜める。
「も、申し訳ありません。……ですが、先ほど鄭成功様の本陣に急報が入りました。鄭芝龍様が、仙霞関の守備兵をすべて撤退させたとのことです!」
その報告に、朱慈煥は微かに目を細めた。
「……そうか。開けたか」
「殿下? 仙霞関は福建の防衛の要です。そこを空にするなど……」
「清軍を招き入れるためだ。兵糧不足などというのは建前に過ぎない。鄭芝龍は、自らの財産と引き換えに明を売り渡したんだ」
息を呑む陳志遠をよそに、朱慈煥は静かに眼下に広がる廈門の海を見下ろした。
ついに、最大の防波堤が崩れた。これから数日のうちに、怒涛のような清の騎馬隊が福建になだれ込み、逃げ惑う隆武帝を追い詰めるだろう。南明はここから、凄惨な崩壊の嵐に巻き込まれる。
だが、朱慈煥の胸中にあったのは、絶望ではなく冷徹な打算だった。
「——これで、平海衛で死んだ病弱な小僧のことなど、鄭芝龍の頭からは完全に消え去ったな」
鄭芝龍は今、一族の命運を懸けた降伏の算段と、清の将軍との交渉で頭がいっぱいのはずだ。もはや、死んだはずの「朱文」がどこかで生きているかもしれないなどと疑う余裕は一ミリもない。
自分を縛り付けていた監視の目は、完全に消滅した。
その夜、朱慈煥は鄭成功の執務室を密かに訪れた。
机に広げられた地図を前に、鄭成功は苦悩に満ちた顔で頭を抱えていた。父の裏切りという残酷な現実が、若き英雄の心を激しく切り裂いているのが痛いほどに伝わってきた。
「鄭成功殿。……予言通りになったな」
朱慈煥の静かな声に、鄭成功は血走った目を上げた。
「……あぁ。父は、清に降る」
「福建は火の海になる。隆武帝も、長くは保たないだろう」
残酷な宣告だった。鄭成功はギリッと奥歯を噛み締めたが、反論はしなかった。朱慈煥の言葉が、すべて現実のものとなっているからだ。
「だが、嘆いている暇はないはずだ」
朱慈煥は地図の上に視線を落とした。
「私は、明日この屋敷を出る」
鄭成功が驚いたように顔を上げた。
「どこへ行く気だ。外はこれから戦火に包まれる。ここで匿われている方が安全だぞ」
「だからこそ、動くのだ。戦火が広がる前に、繋いでおかなければならない者たちが各地にいる。このままここに座していても、私はあなたの庇護で終わる」
朱慈煥は真っ直ぐに鄭成功を見据えた。
「陳志遠を、私の連絡役として伴いたい」
鄭成功はしばらくの間、目の前の少年を見つめ返した。
数ヶ月前よりも少し背が伸び、立ち姿に隙がなくなっている。その瞳の奥には、天下の動乱に呑まれまいと、必死に先を読もうとする光が宿っていた。
「……好きにしろ」
やがて、鄭成功は深く息を吐き出して言った。
「だが、死ぬなよ。お前が本物の皇子であるなら、いずれその名が必要になる日が必ず来る」
「案ずるな。歴史の果てまで見届けるつもりだ」
朱慈煥はわずかに口元を緩めると、静かに執務室を後にした。
翌朝 —— 廈門港
夜明け前の薄暗い港に、旅支度を整えた二つの人影があった。
一つの長い木刀と短い木刀を背負った少年と、その傍らで荷物を抱える若き腹心。
偽装の死を乗り越え、牙を研ぎ澄ました皇子の、真の暗躍の旅が今、始まろうとしていた。




