子母の刀と新たな牙
廈門での潜伏生活は、静かに過ぎていった。
鄭成功が用意した小高い丘の屋敷は、海を見下ろす絶好の位置にありながら、人目は完全に遮断されていた。朱慈煥はここで体を休め、仮死薬が残した深い疲労と毒素をゆっくりと抜いていった。
数週間が経つころには、ようやくまともに動けるようになっていた。
朱慈煥は無理のない範囲で、裏庭で陳志遠を相手に稽古を再開した。
平海衛で陳老人から叩き込まれた基礎の型。それを、今の「痩せこけた十三歳の体」でどうすれば無駄なく動かせるか。朱慈煥はただ汗を流すのではなく、頭を使って稽古をした。
筋力がないなら、重心の移動で威力を生み出す。踏み込みの力を、腕ではなく腰と足に逃がす。現代の物理的な思考回路を持つ転生者としての知見が、武術の理合いと少しずつ結びつき始めていた。
「——そこまで」
陳志遠が木刀を下げ、感嘆の息を漏らした。
「殿下、驚きました。以前よりずっと動きに無駄がありません。筋力は落ちているはずなのに、太刀筋の鋭さは平海衛の頃以上です」
「そう見えるか」
朱慈煥は呼吸を整えながら、手元の木刀を見下ろした。
自分でも、体の使い方が上手くなっている感覚はあった。だが、限界もある。
二人は木陰に座り込み、水差しから杯に水を注いで喉を潤した。
「ただ……」
陳志遠が少し思案顔で言った。
「殿下は身軽で動きは鋭いのですが、やはり打ち下ろした後の隙が気になります。体幹がまだ完成していないため、一振りの刀の重さに、体が持っていかれているようです」
朱慈煥は頷いた。
その通りだ。刀を振った後の遠心力を、今の筋力では殺しきれない。結果として次の動作が遅れる。
「藤牌(盾)を持てば安定するかもしれませんが、それでは殿下の身軽さが死んでしまいますし……」
陳志遠が他愛もない様子で呟いた言葉に、朱慈煥の頭の中で何かが引っかかった。
——片側だけに重さがあるから、体が持っていかれる。
——ならば、両方に重さを持たせれば、釣り合いが取れるのではないか。
転生前の知識——中国武術における「双刀」、とりわけ長短の刃を使い分ける「子母刀」の理合いが、ふと脳裏を掠めた。
近代史の研究において、清末から民初にかけての民間武術や秘密結社(天地会など)の成り立ちを追う中で、数々の武術書や演武の記録に目を通したことがある。長い刀(母)で遠距離を制し、短い刀(子)で近接を防ぐ。左右の手に異なる重さを持たせることで「陰陽」の均衡を図り、体幹を安定させる合理的な戦法だ。
朱慈煥は立ち上がり、庭の隅に置かれていた予備の木刀の束に近づいた。
そこから標準の長さの木刀を一本、そして片手でも扱いやすい短い木刀を一本引き抜いた。
「殿下?」
陳志遠が不思議そうに首を傾げた。
朱慈煥は右手に長い木刀、左手に短い木刀を構えた。
ゆっくりと、素振りを行う。
右の太刀を振り下ろすのと同時に、左の小太刀を引く。あるいは、左を前に出しながら、右の太刀で円を描く。
——悪くない。
風を切る音が変わった。
左右の手にそれぞれ重さを持たせることで、遠心力が相殺され、刀に振り回されていた体が嘘のように安定した。筋力の不足を、二つの「重り」のバランスで補っているのだ。
「それは……」
陳志遠が目を見張った。
「双剣のようですが、左右で長さが違う。どこか南派武術の匂いもしますが、殿下はどこでそれを?」
「昔、本で読んだ理屈を思い出しただけでね」
朱慈煥は短く答え、今度は少し速度を上げて大小の木刀を振った。
左の小太刀で敵の刃をいなし、右の太刀で致命の一撃を入れる。攻防一体の理にかなった動きが、自分の小柄な体格に思いのほか馴染んでいくのを感じた。
「面白い。これなら、力がなくても戦えるかもしれない」
陳志遠も立ち上がり、興奮した様子で木刀を構え直した。
「殿下、私を相手に少し試してみませんか。その奇妙な構え……どう攻めればいいか、まったく読めません」
その日を境に、朱慈煥は定期的に大小二つの木刀を使った稽古を取り入れるようになった。
歴史の荒波を生き抜くための自分だけの「牙」が、廈門の潮風の中で静かに研がれ始めていた。




