英雄と皇子
今回は長いです。
気がつくと、見知らぬ天井があった。
朱慈煥はゆっくりと瞬きをした。体が鉛のように重い。指先を動かそうとすると、微かに痺れが走った。仮死薬の毒素がまだ体に残っているのだろう。
——生きて、いるな。
上体を起こし、深く息を吸い込んだ。平海衛の海風よりも、さらに暖かく湿った空気が肺を満たす。少なくとも、あの暗い棺の中ではない。
簡素だが清潔な寝台に寝かされており、卓の上には水差しが置かれている。朱慈煥は卓に手を伸ばし、乾ききった喉に水を流し込んだ。
壁際の小さな扉が少しだけ開いており、そこから夜風が吹き込んでいる。朱慈煥は重い足を引きずりながら、扉の外へと出た。
そこは、小高い丘に建つ屋敷の小さな庭だった。
遠くを見下ろして、朱慈煥は息を呑んだ。
暗闇の中に広がるのは、平海衛ののどかな港とは次元の違う、巨大な軍港の威容だった。眼下を流れる海峡——廈門の島影と、対岸の鼓浪嶼を隔てる鷺江の水面を、数え切れないほどの巨大な軍船が埋め尽くしている。
船が掲げる無数の篝火が、星屑のように海を照らしている。島のあちこちにそびえる丸みを帯びた独特の巨岩が、月明かりを浴びて黒々とした影を落としていた。
——廈門。
これこそが海の覇者・鄭一族の心臓部であり、これから数十年にわたって明の残党が抗戦の拠点とする不落の要塞島だ。
ようやくここまで来た。
夜風に吹かれながらその圧倒的な景色を眺めていると、背後の暗がりから静かな足音が聞こえた。
陳志远かと思ったが、足音の重さが違う。もっと大柄で、武術に長けた者の歩みだ。朱慈煥が振り返るより早く、声がした。
「本当に飲むとは思わなかった」
低く、よく通る声だった。
朱慈煥が振り返ると、月明かりの下に一人の若い男が立っていた。
長身で、骨格がしっかりしている。顔立ちは端正だが、眉間に刻まれた深い皺が、彼が常に重圧の中にいることを示していた。平服姿であり、供回りもいない。
だが、その眼光の鋭さは、かつて泉州の港で見かけたときと少しも変わっていなかった。
「鄭成功殿」
朱慈煥が静かに呼ぶと、男はゆっくりと近づき、朱慈煥から数歩離れた場所で立ち止まった。二人はしばらく無言で対峙した。
鄭成功の目が、朱慈煥の全身を値踏みするように細められた。無理な絶食と睡眠不足で痩せこけた十三歳の体。だが、その目は眼下の海よりも深く、落ち着き払っている。
「陳豹から報告を受けたときは、己の耳を疑った」
鄭成功が静かに口を開いた。
「自ら仮死の毒をあおり、死体となって平海衛を抜け出すなどと……正気の沙汰ではない」
「それ以外に、張や鄭芝豹様の目を完全に欺く方法はなかったので」
朱慈煥の淡々とした返答に、鄭成功は小さく鼻を鳴らした。
「……私の父は、お前の予言通りに動いた」
鄭成功の言葉に、朱慈煥は微かに目を細めた。
「仙霞関の守備兵を、密かに撤退させ始めた。防の要を捨て、清軍を福建に招き入れるつもりだ」
鄭成功の声には、抑えきれない怒りと悲哀が混じっていた。
「お前の書状の通りだ。父は、明を売る」
朱慈煥は何も言わなかった。歴史の歯車が、完全に史実通りに噛み合った瞬間だった。
鄭成功は朱慈煥から視線を外し、遠い暗い海へと目を向けた。
「先日、福州で隆武帝より国姓を賜った。私の今の名は『朱成功』だ」
暖かい夜風が、二人の間を通り抜けた。
「私が賜ったこの『朱』の姓。……お前が本物の崇禎帝の皇子であるなら、その血は私より遥かに重い」
鄭成功は再び朱慈煥を見下ろした。
「お前は、この後どうするつもりだ。同安の陳氏を訪ねたいと、陳志遠から聞いていたが」
「いえ」
朱慈煥は静かに首を振った。
「同安には会いたい者がいますが、彼はまだ幼い。今接触しても、互いにとって益は薄いでしょう。時期が来るまでは、この廈門で身を隠しつつ機を待ちたいと思います」
陳永華の現在の年齢を考えれば、今すぐ対面を果たしたところで天才軍師として陣営に引き入れることは不可能だ。不用意に動いて史実の歪みを大きくするよりは、彼が成長するまでの間、自らの手足となる地盤を固める方が理にかなっている。
「ならば、大人しく屋敷でほとぼりが冷めるのを待つか」
「その前に、一つだけお願いがあります」
朱慈煥は真っ直ぐに鄭成功の目を見た。
「陳志遠を、正式に私の傍に置いていただきたい」
鄭成功の眉が微かに動いた。
「陳志遠を? あやつはまだ若く、武の腕も立つとはいえ経験が浅い。護衛や世話役なら、もっと適任の老練な者を遣わすが」
「腕や経験なら、後からいくらでも身につきます。何より彼は実直で、裏切らない。……そして、同安の陳家との強い繋がりを持っています。いずれ私が動くとき、彼の存在は必ず大きな鍵になる」
十三歳の子どもの口から出たとは思えない、先を見据えた老成した人事の要求。
鄭成功はしばらく朱慈煥の顔を見つめていたが、やがて呆れたように、口元に微かな笑みを浮かべた。
「……得体の知れない小僧だ。ただの庇護対象ではないらしい」
鄭成功は身を翻した。
「分かった。陳志遠には引き続きお前の身の回りを任せよう。だが、今はまず体を休めろ。この屋敷には私の息のかかった者しか近づけない」
それだけ言い残し、鄭成功は暗がりの中へと歩き去っていった。極秘の短い邂逅だった。
朱慈煥は一人残され、再び海へ向き直った。
月明かりに照らされた無数のマストが、強い潮風に揺れている。ようやく、自分の足で次の一歩を選べる場所まで来たのだ。




