稽古からの帰り道
数日後、稽古からの帰り道だった。
朱慈煥は陳志遠と並んで歩いていた。張は珍しく機嫌が良くないのか、少し離れた前を一人で歩いている。同安県の話を何度か振っているうちに、陳志远は少しずつ口を開くようになっていた。
「殿下、同安では陳鼎先生という方に学んでおりました」
陳志远がふと言った。朱慈煥は内心で静かに反応したが、表には出さなかった。
「陳鼎、と」
「同安県の教諭をなさっている方です。私は家にも来ていただいて、字や経書を教わりました」
「家庭教師か」
「はい。父が陳先生と古い知り合いでして」
陳志远は故郷の話になると目が少し柔らかくなる。これまでの会話でも気づいていたが、今日は特にそうだった。
「どのような方だ」
「真面目で、厳しいが、温かい方です。子どもにも対等に接してくださる。息子さんがいて、永華様という名で、私と同じ年頃で——」
「息子も学者になるのか」
「ええ。私など足元にも及びません。物覚えが早く、論語の一節を一度聞けば暗誦してしまうような方です」
朱慈煥は内心で「やはり」と思った。陳永華——後に鄭氏政権を支えることになる人物。
少し間を置いてから、朱慈煥は自然な口調で言った。
「会ってみたいな」
陳志远が驚いて朱慈煥を見た。
「会う、と申しますと」
「陳鼎先生にだ。教えを受けるというほどではなくとも、一度お話をうかがってみたい」
陳志远はしばらく黙っていた。
「殿下、お気持ちは分かりますが——今のお立場で、大丈夫なのですか」
控えめだが、芯のある問いだった。鄭成功の配下として送り込まれた陳志远は、朱慈煥の身分の重さを理解している。同安県への外出は、簡単に許される話ではない。
朱慈煥は少し笑った。
「君がいるじゃないか」
「私がいても、勝手に動けば張殿が黙っていないでしょう」
「そこは何とかする」
朱慈煥は軽く言った。
「君と話していて分かった。君は信じていい人だ。だから連れていってほしい」
陳志远は急に視線を逸らした。耳が少し赤かった。
「……殿下」
「何だ」
「あまり人を信じすぎると、騙されますよ」
声が少し低くなっていた。照れ隠しなのか、それとも本気の忠告なのか、判じかねた。おそらくは両方だろう。
朱慈煥は少し笑った。
「肝に銘じておく」
——もちろん、陳志远を信じているのは事実だ。だが「会ってみたい」のは陳鼎ではなく、その息子の方だ。陳志远には悪いが、口にする必要はない。
歩きながら、朱慈煥は同安行きの算段を頭の中で組み立て始めた。




