三尺六大人
隆武元年(1645年)10月 福建省平海衛
安海から戻って以来、張の監視が厳しくなった。
武術と剣術の稽古以外では外に出ることを許されず、友達と遊ぶことも滅多に認められなくなった。
自然と部屋で本を読む時間が増えていった。ある夜、張が部屋の前に立った。
「ついてこい」
それだけだった。いつもの「知らん」の男が、夜に声をかけてくる。朱慈煥は一瞬、最悪の事態を想像した。
——殺されるのか。
だが、すぐに思い直した。殺すなら、わざわざ声をかけない。黙って始末すればいい。
張の後ろについて、夜の平海衛の路地を歩いた。潮の匂いが濃かった。祭りの夜以来、外に出るのは稽古の時だけだ。夜の町を歩くのは久しぶりだった。
やがて歓楽街に差し掛かった。酒楼の灯りが路地を照らしている。賑やかな声が、遠く近く聞こえてくる。張はその中の一軒の扉を開けた。
「入れ」
部屋に入ると卓が一つ、椅子が二つ。片方に、すでに男が座っていた。
年は四十前後か。がっしりとした体格で、腰回りがやたらと太い。一見すると動きが鈍そうに見えるが、卓に置かれた手の筋の張り方が、そうではないことを示していた。
男は朱慈煥を見て、目を細めた。
「朱文……いや、朱殿下で、相違無いか?」
男が口を開いた。低く、落ち着いた声だった。
「左様です」
「私は陳豹というものだ。」
男は短く名乗った。
朱慈煥は内心で静かに照合した。
——陳豹
本姓は呂、幼くして陳家に養われた。『台湾外記』や『海上見聞録』に名が残る人物で、その異様に太い腰回りから「三尺六大人」と呼ばれたと記録にある。隆武元年十一月、九軍を率いて福州に至り南澳副総兵に任じられる。史料ではそうなっている。だとすれば、この男は今まさに、その渦中にいる。
——この男が、ここにいる。つまり鄭成功は、書状を信じたということだろうか?
「殿下の書状は届きました。隆武帝を通じて、殿下の身分も確かめた」
陳豹は淡々と続けた。感情を乗せない、事務的な口調だった。
「それで——一つ聞きたいことがある」
朱慈煥は黙って続きを待った。
陳豹は卓の上に両手を置き、朱慈煥を真っ直ぐに見た。
「書状に、鄭芝龍様が清に寝返る可能性があると書かれていた。その根拠をお聞かせ願いたい」
朱慈煥は少し間を置いた。
——また同じ問答か。
鄭芝龍との謁見でも、朱聿鍵との対面でも、今日の陳豹でも——皆、同じところに行き着く。自分の言葉を信じてもらうために、根拠を示し、体裁を整え、見解として伝える。それを何度繰り返せばいいのか。
転生者だと言えれば話は早いのだが、と思わないでもない。だがそんなことを口にした瞬間、今度は正気を疑われる羽目になるだけだ。
——仕方がない。また同じようにするか。
朱慈煥は息を一つ吐いて、口を開いた。
遅らせながらここまで読んでくださってありがとうございます!歴史考証など至らない点もあるかと思いますが、温かく見守っていただけると幸いです。感想やツッコミ、お気軽にどうぞ!




